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言
我々の生活には、どうにも面倒なことが付いて回るもので、これは、我々ひとりひとりが社会生活を共に
歩んでいく一員としての踏み絵のようなものである。
特に組織に属していることでのみ得られる『恩恵』の多い社会では、この『踏み絵』に形だけでも足を
乗せていなければ不安にならざるを得ないのかもしれない。
しかしながら、だからといって、はい、そうですか、と、それをそのまま素直に受け入れているばかりでは、
能天気にストレスを丁重に戴いているようなもので、そうかといって、頭ごなしに、それでは駄目だ、などと
決まり切ったかのような決め付けをしてしまっている人に限って、フラストレーションがこびりついたような表情の
あり様では、我々も、何か、考え直してみる必要があるのかもしれない。
人が幸せであるか否かとは、又、その人がどの程度幸せであり、どんな具合に幸せでなかったりするのかと
いうことを決するのは、自らの満足度であると私は思っている。
たとえ、それが、自己満足であれ、ひとりよがりであろうとも、その人がそれで満足しているのなら、それは
幸せであると私には感じられるし、他人にどんなに羨ましく思われているような境遇にあろうとも、それが
自ら欲するものでなければ、私は、それを、幸せであると見做すことは出来ない。
こんなことは、私にしてみれば、当たり前のことで、それでこのことを言わないままに色々と話をしていることが
多いのだが、時には、私はこういう考え方をしていると伝えなければならなくなる場合があり、それは如何に
他人の目を気にしながら右往左往している人達が多いのかということを物語っている。
確かに、他人に良く思われることで満足する人は多いのかもしれないが、それとて、そのことを自らが
認知して初めてそれと分かるだけのことであって、その場合、その人の満足殿の尺度なり変数はーーそんな
ものがあるとすればの話だがーー他人の見方、受け取り方、感じ方、見事に依存していることとなり、
所詮は、何時まで経っても本当には満足出来ずに、次から次へと新たな欲望が生じては振り回され、
振り回されては落胆させられて、結局は、刹那的にその場その場を苦し紛れに動かされているだけのことで
ある。
但し、私は、頑固者であるのと同時に情に脆いところがあり、世間の目を気にしながら、どうしたら良いんだろう、
等と途方に暮れてしまっている人を目の当たりにしてしまったりすると感じ易くなってしまう性分も併せ持って
いるので、そんな人達を応援したくなる気持ちが沸いて来てしまうことがある。
それでも、心の中では可哀相だと思っていても、厳しいことを言ってしまったり、それから、真直な考え方をして
いなかったり、単に我儘にしか聞こえてこなかったりすると突き放してしまうことさえある。
ただ、そんな時には、本当には頑張って欲しいのだが、私の真意を読み取ってはくれずに、或は読み取っては
くれていても流されてしまうままに自分に自分を偽って、変に格好を付けることばかりに奔走させられてしまっている
人達が余りに多過ぎるということは残念に思われて仕方がない。
が、それさえも、私には、某かの感じ入るものを与えてくれることさえあるのも正直なところである。
何故なら、私は頑固で真直な自分なりの厳しいルールを自分に課してはいるけれども、そんな自分が直ぐに
滅入ってしまうことがあるので、流されてしまっている人達や楽な方へ楽な方にへといってしまう人達の隠された
或は、隠してしまっている本当の気持ちが伝わって来るからである。
しかし、そんな人達が、大抵、持ち合わせている狡さというものには許せない部分もあって、それでいて、自分も
そうしたい気持ちがあるのも、又、事実である。
それでも、自分にはそんな器用なことは出来はしないだろうし、それから、そんなことはしたくはないという気持ちが
何時の間にか自分を支配していることに気付かされることもある。
ただ、他人に言わせれば、私は楽しそうにしていると見受けられることが多いということである。
私にしてみれば、それ程、そんな風には思えないのだが、確かに、私は、ワイワイ騒ぐのが好きだし、会話を
遊ぶようなところはあることにはあるのだが、決して、私は、自分をそのように仕立て上げている積もりは毛頭ない。
私が楽しそうに見えるとすれば、それは、私が私なりに『意地を通せば窮屈』ではあっても、それを曲げないから
だと思う。
私は、我儘だと思われようが、勝手だと思われようが、自分の生きたいようにしか生きない。
そして、それが、又、人の生き方だとも思っている。
それぞれの個々がそれぞれなりに生きる、自らの満足度を高めていく、これが、幸福追求の道であり、その
プロセスこそが満足度を高めていく道なのであり、そして、それがサイクルしている状態にこそ着眼すべきなので
あると私は思っている。
それから、各個々人の幸せというものの形態なのだが、価値観というものが多様化しているのであれば、それは
無論、人を客体と見做して計ることの出来ない種の事柄であると考えるのが当然のことのようにしか私には
思えないのだが、そして、その形態とは、言わば、概念上の完成を限りなく追及していくサイクルとその実態とでも
形容すべき、決まり切ったかのような形で定められたり、それが当然のごとき型に嵌め込めることの出来るような
不動の状態に求められるものではなく、柔軟性があって、弾力があり、徐々に、或は、次々と、繰り返し繰り返し
必要に応じて軌道修正をしていく状態にこそ見込まれるべきものであって、又、それがサイクルしている状態で
あれば、一見(外から見れば)、有り触れて平凡な様にしか思われないような、もっと言ってしまえば、御決まりの
日常の繰り返しであったとしてでさえも、それは、(内にあるものからすれば)ひとつの幸せの形態として、声高に
挙げられるべきものであるかと思われる。
王様であろうと、百姓であろうと、自己の家族で平和を見出す者が、一番幸福な人間である。 ゲーテ
が、そんなことを耳にしたのであれば、脳みそをキリキリとさせて黙って何かはいられないというような人種も
(未だに)根強く存在しているかのようである。
彼らは、(未だに)脳みそというものの力量の限界を信じてはいないのだろうが、そんなものは屁でもない。
概念は実践と相関してこそ、初めて、相互に相乗効果をもたらす類のものである。
であるからして、必要に応じて軌道修正をしていく状態にこそ、最善なり、最良なり、最高というものを
導いていく為の土壌があり、それを土壌として成るものからの働きを見い出すことが出来るのである。
世界がいかにあるか、ということは、より高次の存在にとっては、全くどうでもよいことだ。 ヴィトゲンシュタイン
ヴィトゲンシュタインの言うところでは、人生の問題は、科学の発達が便を良くしてくれてもくれなくても、あとは
それを活用してもしなくても、いかに自分がどうするか、なり、どうなるか、なり、どう思うか感じるか、なり、
何なりによるのであろうからして、
哲学者は何も語るな
ということのなる。
それで、彼の言うところの『語る』ということなのだが、それは、断言する、或は、決するという意味合いで使われて
いるのであって、あたかも決定権というようなものでさえ持ち併せているかのごとく、傲慢にも『語る』ということ
なのである。
そして、彼に言わせれば、そんなもの何ぞ、決して脳みそ何かに与えられるべきものではないということになるので
ある。
これには、私も、賛同出来るものがあるのだが、これが、わたくしめがごときに言わせると、自分とその身の回りが
どうにかなってくれればそれでしめたものだ、というような案配になるのである。
だれでも次のような悔いに悩まされたことがあるかもしれない。それはすなわちせっかく自ら思索を続け、その結果を
次第にまとめてようやく探り出した一つの真理、一つの洞察も、他人の著わした本をのぞきさえすれば、みごとに
完成した形でその中におさめられていたかもしれないという悔いである。けれども自分の思索で獲得した真理で
あれば、その価値は書中の真理に百倍もまさる。 ショウペンハウエル
私は、本を読んだり、テレビのトーク番組を見ている時に、自分なりの考えが沸々と湧き上がって来たりして、その
うちに知らず知らずの間に格闘しているようなことがある。
勿論、ただただ圧倒されるのみばかりで、没入させられたしまって、酔いしれてしまうような時もあることにはあるのだが、
そんな機会は本当に稀なことである。
これには、私が、本やテレビ番組の選び方がとっても下手くそなことなのだが、その理由として挙げられるのかもしれないーー
無論、こんなことは、ただ単に皮肉であって、本当のところでは、私はそんなことは本の一欠片も思ってはいないーーが、
但し、たとえ、それが一冊の書物であろうとも、自らの価値観さえも変えてしまう程のものに巡り会えることも確かに
あるのである。
そんな時の私といったら全く陶酔し切ってしまって、完全にノックアウトさせられてしまい、しばらくの間は、それで
起き上がれない状態のままに、内より、間を置いては何度となく溢れ出づる広大な感動の波が私の身体を
ほでらせ、思考は麻痺させられてしまうのである。
これこそが感激である、と私は思う。
しかし、大抵の場合は、期待を裏切られて、(どんな偉人に対してでも)なんだこんなものかと、ただ理屈を
こね回しているだけではないかと歯牙にもかけないことがある。
と言ったところで、人間の言うこと等はせいぜい言いたいことを言いたいように言うだけのことでしかないのかも
しれないし、又、それだけのことでさえ、そんなに上手に言いたいように言いたいことばかりを巧く言える訳でも
なかろうし、それから、言った通りに何もかもが何だか巧くいくというような時ばかりがそうざらにある訳でもないし、
というよりもそんなことは滅多にない!
ことなのであろうし、兎に角、所詮、言葉というものは、薄っぺらいものでしかないのかもしれないし、何から
何まで言葉を使って表現しようと試みたところで、全てを言い尽すということ等は不可能なことーーそれは非常に
残念なことでもあるがーーなのかもしれない・・・と諦めざろう得ないことなのかもしれない。
但し、言葉では言い表すことが出来なくても、良い思いが出来るような体験をすることで、自分なりに、
心の内には、某かの満足感で一杯になっているような時には、ちょっとした、漏らすだけの一言であったとしても
感じ入るような何かを与えてくれるような場合もあるのだし、又、それが、伝わってくるような時には、互いに
互いの気持ちを巧く表現出来なくても、そこには、言葉何ぞは必要としない何かがある部分を補っくれる
訳でもあり、要するに私の言いたいことは、言葉というものに限界があったとしても。それは、それで、止むを得ない
ことなにかもしれないが、しかしながら、だからこそ、如何にして文字に感情を滲ませるのかということが大切なの
ではなかろうかということなのである。
そうであれば、言葉を完全に使い熟せはしなくても、自分の伝えたいことが、言葉としては不完全であるにも
かかわらず、伝わってしまうのであり、成程、言いたいことは良く分かる、だとか、そうかそうか、分かる分かる、
等という場合がそれに当て嵌まるのであり、そして、それに対しての感想でさえも言葉として言い表せなくても、
又、そんなこと自体が必要ではなく、むしろ、そのような時には、言葉というものは邪魔にさえなるものなのかも
しれないし、更に、肝心な中味が丸でなってなくて、言葉だけが完全であるならば、何の意味があるので
あろうかとも、私は、思うのである。
又、人間が用いるものである以上、私には、そうでなければならないのではないかとさえも思えるのである。
子供は世界を、状況を論じたり状況が変わることを要求したりしないで、ただあるがままの事態をそのまま
認めながら、広大な没批判的な、無邪気な眼差しで眺めるように、自己実現する人間も、自分自身や
他人の人間性をそのような眼差しで眺めるのである。 アブラハム・マズロー
私は、年甲斐もなく、多分に子供染みているところがあり、実を言えば、ただの甘えん坊なのである。
家に居ても何が何処にあるのやら分からず仕舞の上に、家族の手間隙をただ余計なばかりに増やして
しまうだけの存在なのかもしれない。
事実、私は、風邪をひいてしまった時になって、薬がどこにあるのかもわからず、姉の勤めている会社にまで
電話をかけて、その在処を尋ねたことさえある。
それは、非常に恥ずべきことなのだが、私が、それを恥ずべきことだと知ったのは知人にその話を臆面もなく
打ち明けたからである。
確かに、それが恥ずべきことであると知っていたのであれば、恐らく少し位はそのことを告げることに対して
躊躇いの気持ちを感じない訳にはいかないのであろうが、私は、ただ何気なく話の流れるままにそのことを
暴露してしまったことになるのであり、しかしながら、それは、結果として、ということなのである。
それから、私は、自分ではーーここまで話せば、既に、言わずと知れたことかもしれないがーー家事、炊事、
洗濯、掃除、何ひとつ満足に熟せなくて、それでいて、私は、赤ん坊のようにーー夜泣きこそはしないのだがーー
手間隙をかけてしまうということに関して言えば、それと同じようなことをしてしまうことがある。
つまり、私は、(非常に言い難いこのなにだが)夜の夜中になってから無性に御中が減ってしまうようなことが
しばしばあって、それで、そんな時分になっていたとしても、母親を平気で叩き起こしてしまうようなことを
犯してしまうことさえあって、(それでも、最近は、時分で納豆と卵で御飯を食べたり、インスタント食品で
事を済ませてしまうことも多いのだが)、或は、時分の部屋を時分で掃除をしないものだから、私は、それで
一向に差し支えはないのであるが、家の者の中で他の誰かがそれに堪り兼ねてしまい、代わりにきれいに
してしまうようなことがあり、この件に関しては、私に対して、色々と、兎や角、何かと大いに言われることも
あることには違いはなかろうが、その代わりの者に対しては、褒めこそはすれ、それで、別段、不思議は
なかろうかと感じられる人も多いのだろうが、それが、又、私の場合、厄介になってしまうのであり、何故なら
時分の部屋の中で、自分のものが何処にどんな具合に置かれているのか分からなくなってしまい、結局、
あれやこれやと探しているうちに、又、元の、他人から見れば、ただの散らかしっぱなしの状態に戻して
しまうのである。
何だか、こんなことを話してしまっては、誰も、私の嫁さんにはなってはくれないような気がしてしまって、
時分でも、馬鹿だなぁ、等と思ってしまうのであるが、これとて、私に言わせれば、正直、なのである。
私は、嘘、が嫌いなのである。
しかしながら、他人に言わせれば、私は強情で頑固で、時分を曲げないものだから、それが原因となって、
随分、損をしているはずだ、とも言われることがある。
確かに、私は、『意地を通』してばかりいて『窮屈』に感じられることが多くて、随分と損ばかりをしている
ように思われることもないことにはないのだが、でも、本当にそうとばかり受け止めていて良いのだろうか?
私は、今までの自分と、自分なりの行為やその結果を、悔やむことがない。と言い切ってしまったら、
それは、嘘になってしまうのだろうが、では、そうはしなかったならばということを考えてみると、私なりの
人生の節々を振り返ってみれば、これで良かったのではないか、というようにも感じられるのであり、もっと
後悔していたのではないか、というようにも感じられることが幾つも思い当たりもし、又、たとえ、後悔して
しまうようなことになってしまったのだということに対してでも、自分なりの生き方を貫いたのた、ということで
納得出来るような気もするのである。
それで、私は、家族に対して迷惑をかけるという意味で、だらしの無い点に関してのみは、徐々に何とかして
いかなければならないかとも思ってもいるのだが、私が大切にしている子供心に関してまで言えば、
何時までもそのままにして置きたいという願望を持っているというのが正直なところなのである。
そして、私は、何時までも無邪気のままでありたいと思っているのである。
それが、私なりの生き方だからである。
それに、私は、大人とか子供とかというような区分けこそ概念上の問題であり、双方共に人間の併せ持つ
性質だとも思っているのである。
更に、私は、ひとが大人になっていくということは、決して、子供ではなくなるということを意味するものではなく、
子供という要素(とでも呼べるのであれば、それ)が加味されていく過程なのであるかとも思っているのである。
その意味では、大人、だとか、子供、だとか、というような見方でさえも概念上の区分けを多分に含んでいる
のではないかとまで思えて来るのである。
そして、社会という名の、人の集まりの中で適応していくということは、テクニカルに事に当たっていくことであり、
言わば『踏み絵』というものを上手に、自らを失わない程度に、そっと足を乗せるだけで、心に傷を負わない
ままに処理してしまうことではなかろうか、とは見做せないだろうか?
又、人は、テクニカルに事を済ませてしまうことに慣れてしまうーー大人としての要素、とでも呼べるようなものが
働きすぎてしまうーーと、少々、退屈を感じたり、少しばかり、寂しくなってしまったり、このままで良いのだろうか、
等というような反動が生じて来るーー子供としての要素、とでも呼べるようなものを取り戻そうとするーーとは
考えられないものだろうか?
それに加えて、人生という名の道を歩んで行く間には、幾度となく、大人としての要素が必要以上に膨らんだり、
子供としての要素が逆に大きくなり過ぎたりして、内に、そういう軌道修正が(ギッタンバッコン)繰り返されて
いくのではないかとも考えられないだろうか?
あと、皆が皆テクニカルに事を済ませてばかりいると、大人になり過ぎてしまうということは、形骸化という現象
として、我々の社会に難題を吹っ掛けて来るようになるのではなかろうか。
いづれにせよ、私は、子供心は失いたくはない。
そして、私は、何時でも素朴な疑問に傾いていきたいと思っているし、そういう意味では、素直でありたいと
願っているのである。
人は幸福追求する、とは、換言すれば、自らの満足度を高めるということである。
そして、満足度というものは、人それぞれなりの尺度なり変数をバロメーターとして高められたり、維持されたり
しながら、変動していくようなものなのであるから、価値観というものが多様化をしているのと同じように、
幸せの形態というものは、人それぞれなりのものになるに違いないかと考えられる。
無論、それは、一般的に共通点が見い出し得るということを否定するものではない。
しかし、社会の成熟に伴って、より多くの人達が自分なりの価値基準を持つことになっていくということに、
そして、徐々に徐々にではあっても、より多くの人達の価値基準が少しずつ他の人と比して違うように
なるのも、又、否めないことである。
何故なら、社会の成熟と共により多くの人達が自らの満足度を占める割合として、外的報酬から内的満足に、
そのウェートをシフトさせていくようになっていくからである。
そして、私は、先程、少しばかり触れたように、それぞれの個々が、それぞれなりに満足していれば、それが、
それこそ、社会総体が成熟したものである証なのであると考える訳なのである。
そうでなければ、社会のメカニズムというものが自己運動してしまうばかりで、そこに、人の満足がなくなってしまったなら、
何の為の社会なのか分からなくなってしまうのではなかろうか。
現状のままで安んじていられる人たち、つまり文字通りの意味で保守的な人たちは、しばしば正当にも知識人に
たいして疑惑の目を向けてきました。〜知識人のほうではおおむね、自分たちが嫌われるのは、他の連中が
自分たちの頭の良さを妬んでいるからだと思っていました。ところが、しばしば嫌われるのは、彼らが騒ぎを起こす
からなのです。 ジョン・K・ガルブレイス
人の生き方なり在り方なりを、文化なり娯楽なりその社会の在り方そのものなりにまでなぞらえて拡大して、
杓子定規的に全てを決め込んで勝手に嘆いて怒って納得しない人達が居る。
総じて、彼らは、フラストレーションをのべつ幕無しに大量生産するものだから、おそらくフラストレーションの
シェアを独占しているに違いない。
それでいて、彼らの論法は、極めてメルカトル図法で面積比をしているようなものだから、聞いていて疲れて
しまうし、というよりも、それ以前の問題として、彼らの言うこと何ぞ聞きたくもないというのが本当のところで
あって、とはいえ、彼らは矢鱈とわめき声をあげるのだから、兎に角、ちり紙交換やら選挙演説なりのように、
耳にしたくもないのにずかずかと割って入り込んで来る時がしょっちゅうなので、私の気分としては、小学校の
運動会に高らかな放送に折角の日曜日の朝っぱらから叩き起こされたような、そんな一日の始まりに何とも
言えないような言いたくもないような、そんなところである。
教訓を与えようと乗りだす人たちは、それを与えられる人たちよりもよけいに有能であると自認すべきであって、
どんな小さな事でまちがうにしても、それだけの理由で咎められるはずである。 デカルト
良識なり理性と言われるものは、おおむね、グッド・アンド・プラクティカル、という二つの尺度を用いて、
そのバランスを考え、その一致する部分を探りながら、考え進めていくことであろうかと思われる。
その意味では、知識人も、理性を欠いている、良識のない人達、ということになる。
何故なら、知識人は感情的で言いたいことーー自らにとってのグッドーーばかりを口にするし、普通の人々に
比して、自らの満足度を他者に依存しているという点で甚だいい迷惑である。
そして、知識人は、社会全体を天下国家を世界を一心同体と見做しているふしがあって、それはそれで立派な
ことだが、天下国家の看板が彼らには傾いて見えてたりすると(我々にとっては至って平穏でも)『騒ぎを起こ』し
始める。
又、『お節介にも』我々のことに関して何から何まで決めてしまいたい積もりのようだし、そこに含む大多数の
我々の気持ち何かは御構いなしに、要するに、彼らの言う『一心』とは彼らのものであって『同体』とは
我々の胴体のことである。
それに反して、普通の人々は、他者との関係に於いて、それ相応の交換によって生活していく(相互依存)
なのだが、知識人は自分は何もしないが、社会はこうあるべきだと強要するし、そうしなければいてもたっても
生きてもいられないあり様なのだから、全く、彼らのハートは天下国家の人質に取られているようなもので、
が、それも彼らの勝手でそうなってしまっていることで、そんな風に言ったら天下国家も勘弁して欲しい等と
うなだれるかもしれないし、冗談じゃねぇ、と濡れ衣を突っぱねるかもしれない。
科学的研究の客観的成果というものは、こんな(精神分析が明らかにした研究の結果とは、美に反するもの、
道徳上排斥すべきもの、危険この上もないものという)非難をうけてもびくともしない。いやしくも反対するなら、
その反対は、学問という名前で出なおしてこなくてはならない。 ジークムント・フロイト
科学とは、普遍性を追求するものであり、そこから、純粋理論を導き出してこそ学問であるという主張がある。
これを力説する人達の意図とは別に、私が思うのは、この意味で、科学とは、今でもそうかもしれないのだが、
刑而上学がそうであったように、ともすれば、無理数を際限なく追い求める泥沼に嵌ってしまうかもしれない。
という側面を伴うもので、純粋理論とは一義的一面的な捨象と抽象の世界にみられるものであるかと考え
られるのであり、それ故、一義的でも一面的でもない、現実の世界、に於ける総合判断なり因果関係ーー
もしもそれが概念上のものであるばかりではなく実際にあるものだとすればーーとは、とてもとてもその一義なり
一面なりによってのみ言い尽せるものではないであろうし、人間を主体として見做すようになりより柔軟になった
科学からすれば、複眼を要しなければならない、ということにもなるのである。
人間の全ての知識のなかでもっとも有用でありながらもっとも進んでいないものは、人間に関する知識であるように
私には思われる。 ルソー
我々は一つの固体であるのと同時に、数え切れない程の細胞が瞬時にして相互作用を及ぼしている集合体
でもある。
一つの見方なり価値なりで全てを論理で言い包めようという脳みその傲慢、この場合、我々一人一人を社会に
見立てるならば、それは、独裁体制であり、絶対主義であり、『平』らに『等』しく踏み付けられた奴隷の
ままに侍らせられた全体主義の形態である。
私が、集合体という言葉を好むのはその為である。
心も身体も、それでは可哀相である。
脳みそ自体も、それでは、可哀相なのかもしれない。
しかし、自由と平等は各個々人に振り分けられたものであり、内政不干渉の原則からすれば、そのような横暴を
目の当たりにしたところで、それは、民主主義社会の人達が第三世界に於ける、あの、見るに耐えない残虐性
なり不条理に直接触れることの出来ないのと同じことである。
無論、脳みそが我々集合体から承認を得ているのなら、それは、共和制であり、脳みそがリーダーシップを発揮
している、ということになる。
確かに、脳みそは有能である。
但し、脳みそが真っ赤になるのなら、冷やさなければならなくなる。
私に関して言えば、脳みそは、オーバーヒートしないように成可く使わないようにしている。
自然はわれわれの知性にとっては限りなく驚嘆すべきことを最高度の容易さと単純さとで行なっているのです。
ガリレオ・ガリレイ
我々には葛藤があるから異常なのではなく、その葛藤を解決(正常化、機能化)もしくは克服(対処)出来ない
場合には支障を来す、ということは広く知られていることである。
葛藤とは、簡単に言えば、固体内に互いに相反する、二つの要求が同時にあって、ともに満たされない状態の
ことであり、広辞苑によれば、(心)精神内部で、それぞれ違った方向の力と力とが衝突している状態、とあるので
ある。
この場合、解決とは、抜本的、根本的な取り組みであり、補完的なリカバリーということになるのである。
特に、前者は、経済学で言うところの、最適化、均衡のバランス、弁証法では、(矛盾する双方が)直接相互に
相手の性質を受け取るという対立物の相互浸透、或は、正反合、民主主義の成熟では、自由と平等が
相互に補完的役割を演じ、相加相乗していく、本来は矛盾するかと思われるものが、互いに互いを浄化させ、
より完成度の高いものとなっていく(自由によって、平等から強制が排除され、平等ではあるものの、個は
尊重され、平等によって、自由から勝手が取り除かれ、自由ではあっても、公共福祉、社会福祉に反しない
限りの自由を有するに至るようになる)、発達過程に相当するかと思われるのである。
そして、学問と一般の関係に於いても同じことが言えるのである。
それは研究の成果が一般の指針なり参考ともなり、一般的な実践は、学問にとっての実証の実験なりデータと
なっているのである。
この補完的関係が、同時に成り立っていることによって、学問と実践は相互にレベルアップしていくのである。
それから、例えば、哲学のように、学問と一般が乖離してしまっている場合には、学問としての哲学も一般の
哲学も一向に進展しないままに、哲学全体が停滞したり硬直したり退廃してしまったりもするのである。
が、中には、自ら考え、自ら実践していく人も居るが、分業化も効率かもされないままでは哲学ばかりが近代の
ままに置いてけ堀をくってしまい、頭でっかちは大嫌いだが、図体ばかりがでかくなっては却って不便になるばかり
なのである。
が、自ら考え、実践していく、これが、思索なり哲学の本来あるべき姿であるとすれば、これは脳みその限界
なのである。
頭でっかちは、フラストレーションばかりを生産するようになり、そうでなければ、元より、制御仕切れないものなので
あり、それでは、脳みその自らに対する制御能力は、心なり身体に分配されなければならなくなるのであり、我々は
精神革命に引き続いて心と身体の革命さえも急務とされているのかもしれない。
と言ったところで、それは、既に、進行しているのである。
ところで、葛藤であるが、これは、もう一度繰り返すならば、二つの相反する『要求』が同時にある場合に、
相反するにもかかわらず、それらの一致する部分を捜し出そうと解決を、或は、それらを維持又は併行させようと
補完を、試みる刺激となり得るのであり、つまり、人間の諸活動に於いて、二つの『要求』が相反する場合、
その一致する部分が要求されるということであり、相反したところで、その一方だけが要求されるならば、
これは、問題なくその一方が優先されるのであり、双方共、要求されないものならば、どうでもいい、という話に
なるのである。
これは、当たり前の話である。
つまり、対立物の相互浸透といったところで、互いが人間であれば、互いに知りたい、思わなければ起こり得ないので
あり、買いたくもないものならば、需要供給バランス何てものは成立しないし、どこでもドアみたいにあったらいいなぁ、
と思ったところで、供給出来ないものならば、やはり、同じことが言える訳で、その場合、供給側の金儲けの対象と
されない、そんな気はない、ということになるのである。
それから、自由も必要、平等も必要、とされなければ、その一致する部分は必要ではない、ということにもなるのである。
更に最近の現象では、エコロジーがもて囃されて、我々生活者は、それを見込んだモノなりサービスならば、そうでない
もの以上にそれが取り組まれた分は、余計に支払っても良いとする風潮が芽生えて来て、それ故に、何とか自然に
害悪を与えないでモノなりサービスを作り出すための投資が企業によって行なわれるようにもなっているのである。
それで、本来ならば、相反すると思われていたようなものでさえ、双方必要となれば、その一致する均衡の値に向かって
いく刺激となるのである。
この場合、必要なり要求とされなければ、刺激という因は生まれないのである。
これは、人間の諸活動に於ける原点であるかのように思われるのである。
ところで、日頃、私は、自分についてあまり語らないことにしている。
それは、自分については何も語らないということが、どれだけ平穏で、どの位効率の良いものであるかは漠然とではあるが、
より確かなものに感じられるからである。
だから、自分の属するところによっては、私のことを大変心配してくれる人達も居れば、中には、馬鹿にするような人達も居る。
こいつはカモ以上の何者でもないとあからさまに侮辱的な態度で接して来る者もあれば、狡猾な奴だと心からそう思い込んで
信じて疑わない人もいるようである。
しかし、よく、私はこういう人です、と簡単に言ってしまう人が居るけれども、所詮、言葉何ぞは薄っぺらなもので、中味を
それとは知らずに相手の口からそのまま耳を通して入り込んで来たところで、解釈の仕様によってはどうとでも考え進められて
誤解を生んでしまうだけに終わってしまうような気もするが、どうだろうか?
人間は複眼を要しなければ見据えることが出来ない、等という心理学的な成果もあがってはいるが、それは、つまるところ、
時間をかけなければならないということに通ずるように私には思われるのである。
我々の用いている言語なり眼なり脳構造なりは、兎角、一面的になりがちなのであり、それらを意図して多面的なものに
しようと試みるならば、必然的に具体性を欠いてしまって、抽象的にならざるを得ないと、又、それをそのままそれによって
把握するためには言葉の前に内容が必要となるに違いないと私は考えるのである。
それに、一面的に全てを言い尽くせたところで、それは、全てにとっての一面でしかなく、全てにとっての全面はまだまだ
果てしのないものなのである。
ファイゲンバウムは言うのだ、あまりにも多くの変数に委ねられているのならば、それは、予測不可能である(カオス理論)、と。
普通は、マクロという大きな枠を顧みずに、ミクロにのみ主眼を置き、視野を広げていく積もりが狭めている、或は、刑而上学的に
追求するばかりを言うのであろうが、マクロ的にであれ、弁証法的にであれ、それが一義的であるならば、それも、木を見て森を
見ず、ということになってしまうのである。
一面的になりがちな我々の眼を幾通りにも使い分けていくうちに、だんだんとひとつの内容が形取られていき、そして、それは、
統計学上明らかにされていることなのである。
要するに、我々は、複眼というような便利なものには恵まれてはいないのだが、時間というものが我々に複眼を与えてくれるので
ある。
それから、少々、話が横道にそれてしまうように感じられるかもしれないが、私はオムニバスが好きである。
オムニバスとは、幾つかの短編を並べて、全体で一つの作品にしたもの、の意なのであるが、それは、ひとつのテーマを色々な
角度から眺めることであり、それと同じ一つのことが、色々な場面で、色々な状況の下に、色々な形で現れる、そして、その
全てを楽しむことが出来るのなら、その集合体という全体の何たるかは、どういう訳なのか、何時の間にか、全体がぼんやりと、
時には、くっきりと浮かんでくるようになり、無理をすることもなく、良い気分で自然のうちに、しかも楽しみながら、その時、結論、
というようなものが言葉として示されるのならば、何とも興醒めなことだろうか!
又、全てを楽しめなくとも、部分々々で楽しむことが出来るなら。欠けてくる球が丸くなる。
人生はオムニバスである。
そして、人間の在り方や生き方といいものは、人それぞれなりのものであり、人によっては、あってもなくてもいいようなものともなり得、
少なくとも言えることは、それらをマクロ的、もしくは、弁証法的に規定することは出来ない、ということである。
つまり、仮にもしもこれが唯一絶対普通のものだ、という規定が科学的にも立証されたところで、それにより、人によっては、
満足度が高められなければ、それに従う必要はないのである、というのが民主主義の在り方なのである。
私はオムニバスに民主主義を感じる。
そして、オムニバスは集合体なのである。
だからこそ、私は、オムニバスが好きなのである。
そらから、こんな話もして置こうかと思うのである。
例えば、囲碁や将棋には定石というものがある。
しかしながら、碁打ちや将棋指しには、人によって、碁風なり棋風というものがある。
そらから、定石というものは幾つもあり、各自の好みによって、或は、状況によって、それぞれ、その場合に見合ったものが選択
されるのである。
それに、定石というものは、人によって、自由に自分なりにアレンジすることが出来るのである。
そして、ある定石を参考にするのも自由なのであり、そんなものは無視してしまっても、それも自由なのである。
又、どの程度まで参考にしても、どの部分に関しては無視してしまっても良いのである。
全て自由なのである。
更に、定石は次々に修正が施されて、それが、最適化の作業となるのである。
そらから、単に自分の好みで打っていた(指していた)者が勝ち進めば、それが、一つの最適化として活用され、自らの満足度を
高める為に打っていた(指していた)者が名人となれば、今度は最適化の方がそちらを追い掛けるのである。
そこには、勝ち負けもあれば、芸術を楽しむ心があるのである。
満足もあれば最適化もあり、定石もあれば芸術もあり、勝負もあれば好みもあるのである。
要するに、全て自由なのである。
そして、その自由は、無論、誰にでもあり、要するに、それは、平等であり、要するに、それは、民主主義なのである。
もっと遊べ死ぬまで遊べ!
我々生活者がより遊ぶようになりさえすれば、それにより、何らかの消費活動の機会が増えることになるのであり、それ故、
それまで以上の生産量を、それだけ増大させねばならなくなるのである。
そして、そのことは、生産者としての我々の待遇が、より良くなりことに通じるのである。
又、人手不足によって、企業の体質改善は恒常化されなけらばならなくなるのである。
もっと遊べ死ぬまで遊べ!
それでは、誰が働き誰が遊べば良いのだろうか?
簡単な話である。
我々が働き我々が遊べば良いのである。
それが相応である。
それだけである。
但し、このことが歴史歴にはコロンブスの卵であったことを嘆かずにはいられない。
世界は支配の連続であったのであり、絶対者もその昔の資本家もその昔のプロレタリアアートも結局は支配体系の頂点で、
傲慢を満足させていただけの話である。
とはいっても、そうやって変遷を繰り返して少しずつグッド・アンド・プラクティカルに前進していったのも確かである。
今、我々は、交換の原則を何とか維持発展させていくことで、民主主義を満喫しながら、更に発展していける恩恵に
恵まれているのである。
どなたかあの鳥を見つけた方は、どうぞぼくたちに返してください。ぼくたち、幸福に暮すために、いつかきっとあの鳥が
いりようになるでしょうから 「青い鳥」より
幸せは身近なところにある。
しかし、どんなに大きな幸せが転がり込んで来たところで、自分でそれと、つまり、それが大きな幸せなのだと気付くことさえ
出来なければ、幸せにはなれないのである。
ひょっとしたら、そんな人が多過ぎる位たくさん居るのかもしれないし、そういう人は心の病気にかかっているのかもしれない。
例えば、どんなに退屈で、どんなにちっぽけで、どんなの有り触れた、そんな時にだって、幸せは身の回りにごろごろ転がって
いるのであり、勿論、そんなものは幸せと呼べるようなものではない等と言う人が居るかもしれないし、確かに、それだけでは
多くの人が、というよりも、大抵の人はそれだけでは満足には至らないのだろうかとも感じられるのだが、それで満足出来ようが
出来まいかは人によって、或は、程度によっても色々と違ってくるものであり、が、しかし、少なくとも、それが、ひとつの幸せだと
気付くことさえ出来もしない人に、いざ、大きな幸せを手にした時になってそれ相応にそのままそれを大きな喜びとして、又、
満足として迎え入れること何か出来る訳もはずもない。
それは、幸せを感じることの出来ない心の病気でしかないとも考えられ、日々の生活は、無論それだけで十分満足出来得る
ものでもあり、それは、どんなにちっぽけだといったところで、同時に幸せを見付ける訓練をしていることでもあり、幸せを
感じる練習にもなっているのである。
皆が皆、日々の生活を大切にしているのだろうか?
もしかしたら、折角、つかんだ幸せを感じることも出来ないままに、何度も何度も、つかんでいながら何時まで経ってもそれと
感じることの出来ない人が多いのではなかろうか?
それでは丸でゼノンのパラドックスのようである。
人間には向上心も必要であろうが、それは、その時その時の幸せを感じることが出来ないということを断じて意味するものでは
なく、むしろ、それを必要とする部類のものであり、何より、それ相応の正当な評価を心が下せなくては本当は見えるはずの
ものなのに何も見えていないのと同じことになってしまうのではなかろうか?
総じてわかることは、静かな生活が偉大な人びとの特徴であり、彼らの快楽はそと目には刺激的なものではなっかた、
ということだ バートランド・ラッセル
私は、大学四年の時に病気をしてしまい、その当時、就職するか大学院にいくべきかで大変悩んでいたのだが、結局、
そのどちらも達することが出来ないままに学校を追い出されるはめ(卒業すること)となってしまって、それ以後、数ヵ月間は、
いわゆる、プー太郎生活を送ることになり、その当初は、今後の人生に関して、非常に不安に思うようになり、まだ完全には
直り切っていない病状を悪化させてしまうことになってしまったのである。
それで、私は、焦りを感じるようになってしまって、逆に無理をすることのなってしまうのだが、かねてから興味のあった教育の
中でも、手っ取り早く就職の出来てしまう塾講師という職業を選ぶことにしたのである。
だが、確かに教育には関心があったもののーー私は、学生時代から教職課程を取ったりして、それから自分なりに勉強を
しながら塾講師や家庭教師を(アルバイトという感覚ではなく、自分のやりたいこととして)していたのだがーーやはり、
病気の所為もあって働ける状態ではなかったのか、長続きはせずに二カ月にも満たないうちに止めてしまうことになって
しまったのである。
そして、約半年程、浪人生活ーー何の為の浪人だったのか、未だに定かではないのだがーーをして過ごすことになったのである。
しかしながら、それ以後にはある意味では開き直りの気持ちもあったのか、不思議なことに焦りの気持ちは生じなくなっていった
のである。
自分には、養生という時間を設けることが必要なのであり、今は、その時が来るまで何もしないでいることが肝要なのであり、
そして、又、職に就く、ということは、そんな軽い気持ちで臨むべきものではなくて、それから、社会人となるということは、
それなりの自覚と責任感がなければならないのであり、今の自分には、そのどちらかでさえも持っていないのであり、それに、
長い人生、まだまだこれから何とでもなるというような、言わば、根拠のない自信のようなものでさえ出て来て、それは、
落ち着きと漠然としたものではあるが、安心感とでも称せば良いのだろうか、兎に角、そういうものが、私には、芽生えて
来たからであり、それに加えて、健康という大切なものを、まず、取り戻さなければならないという思いが非常に強いものと
なり、そして、又、その重要性を身を以て、確かに、知ることになったのである。
それからというもの、私は、浜辺を散歩しながら海を眺めていたりーー私は、浜辺まで徒歩5分位のところに住んでいるーー
ゴロゴロと、一日中、寝転んでいたり、気が向けば、読書をするようになり、又、学生時代の頃、そうであったように、
知らず知らずのうちに気が付けば文章を書いていたりするような生活をするようになったのである。
これは、今にして思えば。極楽である。
それは、あたかも、隠遁であるかのようであったのである。
そして、私は、本当の幸せというものがどんなものであるのかというようなことを頻繁に考えるようになったのである。
無論、そのことを考えたりすることは、私にとっては、全くの初めての経験ということではなかったのだが、今にして
その当時のことを振り返ってみれば、貴重な経験ーー大抵の、特に健康に恵まれている人には、その程度の年頃で、
ここまで真剣に、又、ここまで切実に、且つ、このような形では味わうことの出来ないような体験ーーをさせて
もらったのだと私には思われるのである。
しかし、こんな言葉もあって、それは『自分は今幸福かと自分の胸に問うて見れば、とたんに幸福ではなくなってしまう』
というようなものなのであるが、私に関して言えば、それには当て嵌まらなかったーー別の機会にはこの頃とは違って
これに当て嵌まってしまうような経験も、私には、(そして、恐らく、多くの人達にも)あるのだがーーのであり、何故なら、
私は、今の自分が幸せなのであろうと感じながらにして、そのことを斟酌していたのだと思えるからなのである。
又、この経験自体が、幸せを感じることが出来たの同時に、肥やしともなって、私は生きていけるということに対して
嬉しさが沸かない訳はないのである。
何と素晴らしいことではないか!
だが、こんな思いが出来る生活もそう長くは続ける訳にはいかなくなるのである。
それは、当たり前のことである。
普通、このような生活は、某かの働きによって、自ら、手にすべきものであってして、私のようにたまたま病気をしたからといって
何時までも満喫していられるようなものではないからである。
要するに、私は、段々と回復し出して来たのであり、それに連れて、私の母が口うるさくなってきたのである、働け働け、と。
「やっぱり、働いてなきゃ駄目。働いてなければただ内に居たってどうしょもないだろ。働けばもっと元気になっていくし、御母さんだって
働いてなければただ家に居たって暇で仕様がないよ。それに働けば友達だって新しくどんどん出来て来るし、御前だって何時までも
病気のままで居られる訳じゃないんだし、お医者さんだって言っていただろ、人に接していなければ駄目だって」
でも、私は。たまたま病気になってしまったから、ということにより、ある意味では、幸運に恵まれた訳なのであり、そして、それによって
与えられた、その当時の生活から離れたくはなくなってしまったーー要するに。私は、単なる怠け者になってしまったというだけのことで
あったーーのであり、母の言葉を耳にする度に、何をくどくど言うのだろう、えぃ、面倒臭い等と感じるようになりーー実のところ、
私の母は非常に何事につけてもくどくどと同じようなことを何度も何度も繰り返し繰り返し口にする性なのであるのだがーー
と言っても、この場合、明らかに非は私の方にあるのであり、ただ、それでも、私は、その度毎に、何かと理由をつけては、時間を
延ばし延ばしにしながら、成可く長くこのような生活を続けていたいと思うようになってしまっていて、そのような汚い性根が
こびりついてしまうようになっていたのである。
夏目漱石は、我輩は猫である、の中で『主人は好んで病気をして喜んでいるけれど、死ぬのは大きらいである。死なない程度
において病気という一種のせいたくがしていたいのである』等と皮肉っているが、実際、私の場合は、笑ごとでは済まされない
ものがあったのであり、今にして思えば、誰かれにという訳ではないけれども、兎に角、御詫び申し上げなければいけないという
気持ちで一杯なのであり、反省しなければならないとも思っていて、又、世間様に対して、そして、何より、一言でも、申し訳ない、
と私の母に言わなければならないのだが、今の私も結構というか随分といい加減で適当なところがあるままなので、このことは、
未だに言わず仕舞でいることを、実は、内心、心苦しく思っていることさえあるのだが、それでいて、一向に、改心しなければ
ならない、と本気では思っていないところが、私の悪い癖なのである。
こればかりは、使い古された言葉ではあるが、結局、死ぬまで直らないのかもしれない。
ただ、私は、自分のエゴイズムをどうにも仕様のないものだとも、又、煎じ詰めれば、如何ようにかしてでも直さねばならぬ
ことだとも思うのだが、それから、私は、道楽者であるばかりなのかもしれないが、私がしていたことは、ある種の風流であり、
知的好奇心を満足させる為のものでもあり、思索と言えば聞こえは良いかもしれないが、それにしたところで、自分なりに
自分なりに自ら考えるということをしていたのであり、そんな私に言い分けしてくれるのは、ラッセルの言葉にあって、それは、
『余韻を知的につぶすことができることは、文明の最後の産物であ』るということであり、私の場合、問題となるのは、それが
自ら作ったものではなくて、たまたま与えられた余暇であったということではないかと感じられるのである。
そして、私は、誰にも文句を言わせないような、自分で生み出す余暇というものに、兎に角、早く、在り付きたいと思っている
のである。
それに、人が幸福に在り付くには、誰にでも、芸術を楽しむ心が必要なのではないかとも思えるのである。
この場合、何も芸術と言ったからといって、大袈裟に考えるべきことではなく、自分の考えなり心情なり人生の在り方なりを
語らったり、気が向いた時に、日記等を付けてみたり、あとは、ぼんやりと心の向きのたゆたうままに過ごしてみたり、
鑑賞しながら感傷にふけるなり、人それぞれ色々な時間の楽しみ方があるだろうし、又、内なるものに、ちょっとした
刺激でくすぐられるようなことは、それで、癒されたり、和まされたり、落ち着きを与えてくれたり、心の中に憩いの場を
授けてくれる、それが芸術を楽しむ心ではなかろうか?
私に関して言えば、あらかじめ遠回りでもしながら、わざわざ寄り道でもして道草でも眺めてみようか、何ていう思い、歩み方が
あるのである。
そして、私は、芸術というものは日常生活の中に垣間見ることの出来るものなのであり、そんな生活の一コマ一コマに溢れて
いるようなものだとも思えるのである。
だから、一部の人達だけが満足を覚える為だけのもの等とは決して思いはしないのである。
そして、芸術というものは人間にある非常に重要な何かが所有するところの、人間を満足させ、興奮させ、狂気させ、成長させ、
幸福に導き、至らしめるものなのであると私は思うのである。
又、漱石の言葉になるが、草枕、には『あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊い』とあるのである。
ただ、我々は単に人間であるばかりでなく、と同時に、歴とした、ホモ・サピエンスという霊長類ヒト科の動物なのでもある訳で、
そして、我々はその動物という形態に住み着いた寄生虫のようなものでもあり、このような表現は昔どっかの偉い人もしていた
ような気もするが、その点に関して言えば、先述したショーペンハウエルの言葉を大切にしたいのだが、それで、動物という
貝殻の中の宿借りの中味のような借家人で、同居人で、厄介者でーーどっちが厄介者だーーー居候の寄居人でもあり、
又、私の大好きな人間であるばかりではんばくて、社会の構成メンバーなのでもあり、我々は人間で居るばかりでは消滅して
しまうのであり、つまり、芸術、以外のややこしくだた面倒なだけのことを欠くべからずして、日々、繰り返さなくてはならなく
なるのであり、これは、我々一人一人が生きていく上での義務に相当するものなのであるかとも考えられるのである。
そして、それは、わずらわしいーーと言っても面倒という意味だがーーものでもあり、これに煩わしいを加味すると条理の中の
不条理を考えなければならなくなってしまうのである。
しかし、私は、ものごとを突き詰めていくことを旨とすることにより、自ら考えることに没頭して、それなりの満足にも至り、芸術が
誰にとっても不可欠要素、憩いの場であるばかりでなく、私は、心底、あらゆる意味で芸術こそが人間を救うものだと
信じていた時分もあったのであり、そして、私なりに自ら考えることによる満足は自分自身にとってこそ意味あるものなのであり、
他人にとっては紙屑同然なのかもしれない、という場合は、無論、あり得るものであろうが、というよりも、経験的には、そちらの
方がより多く、むしろ、それで当たり前位なものでもあり、又、そうであっても、或は、そうであるからこそ意味あるものなのであり、
我思う故に我あり、彼は彼思うに故にあるものなり、という自分なりの結論らしきものに爽快を覚えたのである。
ところで、変なところで話があっちこっちにいってしまうのだが、そもそも道草とはそういうものなのかもしれない、というよりも、
そういうものなのであろうし、ただ、このように無駄とも見做しがちになってしまっているそれ自体が本当には積み重ねになっているので
あり、それが布石ともなって、又、いい味になっているように私には思えてならないのである。 |
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