前略 原本玲子様



先日 貴方のCDを購入させていただき 早速 拝聴させていただいております次第であります。 それより後、CDの方は順調に回転しておりまして、デッキの方も調子がよく、今日の文明社会が産み出した産物はさすがに よくできているものだと改めて感心しております次第であります。 ではなくて、現代の文明文化が産み出した芸術の極み至り尽くせりの何ともはや、ともあれ甚だしいものだと感じ入るばかりであります。要するに繰り返し繰り返し貴方の歌声を耳にしております毎日なのであります。

ところで、 少々 挨拶が遅れましたが、



     残暑お見舞い申し上げます



もう夏も終わりですねぇ、と、勿論、今は既に九月になっているんですから、こんなことを言うのも おかしな話なんですが、今年の夏は暑かった。本当に夏らしい夏でした。ですから、こんなことを申し上げることができるのですが、夏の終わりと秋の始まり、これは考えさせられますねぇ。夏が終わるのは何だか淋しい。 もう秋なのに、 胸の内には 夏の思いが残っている。 時間の経過とともに、人は生活していくものですが、心の内までは、そうとばかりにはいきません。季節の変わりめは色々と準備が必要になりますが、 私は夏が終わるのが一番 悲しい。 時は経っても 秋になっても 夏の名残りは惜しいものです。 それを神様も分かってくれているのでしょうか?自然の摂理として『残暑』というものがあります。 何だか 人の気持ちを時空に体現しているかのごとく、夏の終わりと秋の始まりには『残暑』です。

『真夏日』 いいですねぇ。 何も夏だからといって、 海だ山だと大層に騒ぐだけでなく、普段の生活の中にも『夏』はあるんですよねぇ。 玲子さんのイメージ・フォト いいですねぇ。

帽子を被って、顔が見えなくて、ジーンズの吊りズボンが かわいくて。 でも、 肩なんかは丸出しで、『夏』ですねぇ。 ちょっと顔が見たくなりますよねぇ、こんな女の子。と思ったら、裏にレイちゃんが笑っているじゃないですかぁ。 ハッハッハッ これはウケました。

『もう電車がくる』ーーレイちゃんの顔が悲しそうに見えますねぇ。 私は 音楽のことはよく分かりませんが、 玲子さんの歌唱力がうまくコーディネイトされた作品だと思います。

ポツリポツリという位にまで トーンを落とした部分は、 それでいて、 意外とハッキリ発声されていて、 けれども 曇っているようでもあり、 無論、デレクティングで、 そういうことになったのでしょうが、それがレコーディングというものなんでしょうから、とても洗練されていると言えばいいのでしょうか? というよりも精錬されているという表現の方が はまりでしょうか? そして、 私の大好きな、レイちゃんのソウルの入った、とても響きのきく、言わば、『決して野太くはないのに、よく通る声』、これは本当に立派な財産だと思います。 私は何度も何度も聴いてしまっております次第であります。

『真夏日』 いいですねぇ。 駅のホームで立っている イメージ・フォトの女の子の後ろ姿、何を思っているのでしょう。何を感じているのでしょう。無表情の後ろ姿に、まばらでもなく、混雑し過ぎている訳でもなく、何の関係もない人たちがうごめいている、 そんな一人だけ時間が止まってしまっているような 無表情の後ろ姿の女の子がいます。初めのうちは、たまたま目に入っただけだったのですが、ぼんやりと見てしまっているうちに、 目が離せなくなります。 帽子を被って、肩を丸出しにした、吊りズボンのジーンズに すっぽり埋まった、無表情の後ろ姿の女の子。 いい天気で、お日様は微笑んでいるのに、時折、生暖かい風が涼しげにさえ感じられるのは何故でしょうか? カラーのスクリーンのフレイムがズームになると、モノクロになった画面に女の子の後ろ姿がアップになった、その時、勢いの よ過ぎる風を運んで、電車が図々しくもフレイムの中に横から割り込んで来ます。私には女の子の舞った髪が妙に印象に残りました。私は、その女の子の顔が見たくてたまらなくなり、急いで近づいて行こうとします。そして、横に回って顔をのぞき込もうとした、その瞬間、画面は真っ暗になってしまいました。そして、画面はスピーカーにとって代わり、もの凄い音量で、レイちゃんの歌声が聞こえてくるのでした。



おしまい





P.S. 『This must be love』の must は、現在形と過去形に、スペルの違いがあり

ません。これは愛だったに違いない、愛だったはず、なんて和訳すると、

レイちゃんの歌声に一層、哀愁が漂います。私は、そんなことを思いました。

過去と現在の区別が つかなくなる妙味を感じさせてもらいました。

もしかしたら、勝手に。 そんな楽しみ方もさせてもらいました。

ところで、正直を言えば、私には、いわゆるヒップホップ というものが

よく分からないのです。要するに、ヒップホップが何故 ウケるのかが

分からないし、ヒップホップという概念が分からないし、つまり、それの

指し示すところがよく分からない。ただ、この『The Last Game』を聴くこと

により、これを機会に自分なりに よく考えてみました。それを申し上げる

ならば、それは、



ヒップホップとは、バラエティーに富んだ、バリエイションのある様々な要素を一つの作品に取り入れることにより、その融合を図り、それにより、その度合いが進行していくことで、一つの作品たる、その集合体が、アメーバーのごとき、一つの単体として、制御されることのないままに広がりをみせたり、伸び縮みする、そこに その味を見い出し得るのかななんて理屈ができあがり、自分なりの解釈としました。そういうことならば、確かに、いわゆる一つのアウトラインというものは、今日の科学的立証と、その成果からすれば、それ自体に弾力があり、柔軟性を帯びている必要があり、そういうことから、変化進化発展していく土壌ともなり、又、変化進化発展していく過程で、更にそのブラックボックスが原動力ともなり、言わば、アウトラインの枠、それ自体の柔軟性と、その枠の中に含まれるブラックボックスが相互に交互に瞬時に持続的に作用し合い、影響を及ぼし合うことにより、そのサイクルと実態となっていき、自己運動にまで至るのかなといったところでしょうか。



そんなことを考えているうちに、よく分からなかった『The Last Game』が

妙にフィットするようになってきて、もしかしたら、その味が分かってきた

のかもしれません。少なくとも、自分なりには十分に楽しんでいます。

ただ、やっぱりレイちゃんの、ナマの歌声をカラオケでとはいえ、聴いたこと

のある私としては、欲を言えばの話しですが、やっぱりレイちゃんの響き、

むきだしのクルードでバルネラブルなレイちゃんを聴いてみたいです。

自分に酔ってしまうことにより、その分、尚更、ひとを酔わすことができる

のが、レイちゃんなんですから。それによる、その、もっと哀愁の漂う、

感受性の もっと赤裸々の露(あらわ)を是非! 自分が酔うことと、ひとを

     酔わすことの接点をヒットできるレイちゃんなんですから。