コラム・子供


 子供について論ずるという事であるが、ここで良識のある、正当な提言をしたところで、それは他の人に任せてしまう事にして、私は少し別の視点から申し上げたい。

 例えば、従来の教育制度はけしからんという意見ーー三無主義の画一化された生産者型の人材が大量生産されるのみで、それは子供にとって、それから人間形成の過程に於いて悪影響を与えるだけで、土台、人間を人材と見做す事自体が、人権を無視したものであるーーがある。私はこれに敢えて反論してみようかと思う。

 受験戦争によって機会均等は拡大されたのではなかろうか。学歴社会は、学校が就職するためのチケット化する事で、誰もがその人の頑張り次第で自らの将来を決する事が出来る、というような面もある制度ではなかろうか。詰め込み式は努力次第なのだから、それ故、その人の意志によって左右されるのではなかろうか。日本の偏差値は頑張りの度合いを示すものではなかろうか。

 そうは言っても、子供は伸び伸びと育てられるべきであり、取り分け慈悲深く細心の注意を払って扱われなければならない、と言う人が居るかもしれない。それならば申し上げる。子供が伸び伸びと育てられるべきならば、人間は伸び伸びと育つべきである。

 子供とはいかなるものなのかを理解する上で、あるいは、子供とはいかにあるべきかを考える為には、人間の有り方や成長というものを考え合わせなければならない。そうでなければ、それは、無責任というものである。

 私は、子供の頃、大人にはなりたくなかった。少年になっても、その気持ちに変わりはなかった。ただ、中学の卒業が近くなって、入学したばかりの時分には大人のように見えた上級生に、今、自分がなっていると思うと自分も大人になったような気がしたのを覚えている。いつまでも子供で居られたら、と思っているうちに、いつの頃か、子供は子供だけでは生きられないという事に薄々気付き始めるようになった(今でも、子供としての一面を大切にして居るが)。

 子供は子供であるのと同時に大人への前段階なのである。だから、我々は、人間が伸び伸びと生きられるような社会を形成しようと試みる事なく、子供に対してのみきれい事を押し付ける訳にはいかないのだ。

 ところで、今日の我々であるが、物質文明もそれなりに成熟に至り、そればかりか副作用さえ馬鹿にならない位のものになっている。もはや、我々は外的報酬だけでは満足出来なくなっている。いかにして自らの満足度は高められるのか、それにしたところで、特に精神の充足には大きなウェートが占められるようになって、我々は食べるためだけに働く事はしないだろう。我々はただやみくもに金銭報酬を追い求めたりはしない。物質文明の洪水の中でそのまま溺れているだけでは不安にならざるを得ない。従来、無駄とされていたものは我々にとっての重要な価値である。効率が良い、という事は、別の言い方をすれば、犠牲が少ない、という意味でもあるのだが、我々にしてみれば、外的報酬を多少犠牲にしたところで、内的満足を尊重するのは自然の事になりつつあり、損得で考えれば得であり、それは、我々にとってのより犠牲が少ないという事であり、効率が良い、という事なのである。今こそ、物質は目的ではなく手段なのである、と声高に断言出来る時なのである。

 言わば、我々は、これまで動物として、生物として成長して来たのであり、経済至上主義に基づくマンパワー政策の下、良質で生産者としての人材が大量に生産されて来たのであったが、価値は多様化され大量生産される商品は受け入れられなくなって来ている(モノだけでなくヒトも)。今着眼すべきなのは『人間』であり、今こそ本当に個の尊重されるべき時代に到達したのであり、我々は子供に対しても伸び伸びと育つ事を要求出来、主体性のある、それぞれにとっての自分を作り上げるべく、それぞれがそれぞれなりに生き、それぞれなりの価値観や考え方でそれぞれなりに幸福を追求していく、理想の社会を目指す事が出来る時なのである。