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後天的発達
数年前、男女機会均等法が強化されて、企業の採用などでは、女子の総合職への振り分けだとか初任給の男女間差額の縮小、均一化などが顕在化し始めている今日である。巷では、もはや男は必要ではない、必要なのは良い男だけである、という風潮も浸透して来ている。女の側からすれば、自分なりに生きてみて、良い男が居ればくっついてしまおう、という向きがあり、それは、つまり、浮世のその他ものものと男を計りにかけている、という事になる。これを社会的には女からのモーションである、と見做すれば、男も頑張らねばなるまい。但し、勘違いしてはなるまい。
それで、仕事とやらを女もやってみるか、という事になったのだが、これは中々難しいようだ。その昔、武は武士に、という事で、その他の階層の者は武という面倒には触らなくても良かった、という見方もあったそうだが、億劫に思えてならなかったそうだ。中には、武に携われる、というだけで感激した者もあったようだが、幕藩体制が崩れ、地租改正がなされたことで、これまで武とは無関係でいられた唯一とも言える『特権』を剥奪された上、税まで上げられてやる方ない憤懣に喘いだそうだ。ところで、この士農工商混成軍隊編成は強かったのだという。
今日の女子の社会進出は、仕事の内容ではそれ程女子が頑張っている、その方向に進んでいる、とは言い切れない状況下にある。それは、あたかも藩閥政治によって、高官は薩長を中心とした特定の藩によって占められる、ではないが、依然、男社会の壁は厚いようだ。
しかしながら、忘れてならない事であるが、女姓の社会進出を阻んでいるのは、社会の体質や慣習の為もあろうが、女自身の所為もある。それは、女子自体が採用当初にそれ程頑張らなくても同じだけ貰えてしまう状況にあぐらをかいてしまっている、甘え、という実情である。但し、甘えと言っても、それは結局自分の受けるべき報酬となって帰って来るものであり、一般的には下積みと呼ばれるものがその後の給与賞与手当昇進に影響するのだから、もしもそれが社会や企業の体質や慣習にではなく、甘え、によるのならばその後の男女間格差も正当性を帯びてしまう。
それにしても、女は楽で良いではないか、とも思える時があって、なんでもかんでも女がやってくれれば、これは楽で良い。たまたま知人の集まりで随分と頑張る女達が居て、男どもはただ座ってばかりいれば良い、という事で、私なりに、女とはこれ程楽なものか、(通常はこの逆の立場に男と女が居るのであるからして)これならば女に生まれて来れば良かった、などと思えてしまった。そのうちの一人に何故女に不満があるか、と尋ねたところ、いくら楽でもそうしたい人とそうでない人が居る、選べないから良くない、と返答された。これには頷いた。
ある時、今の社会では、仕事を選ぶか、家庭を選ぶか、女にはそのどちらかしかない。両方とも、という訳にはいかない。男にも負けない位の仕事をしてみたいが、どうせやるなら徹底的にやってみたい。でも、女がそうするには結婚を諦めなければならない。若いうちにそれを決めるのは出来ない、と言う人も居た。尤もな事で、今の新規学卒一括採用から終身雇用、年功序列と通じる会社組織の社会形成では、女が仕事を本気でやる、という事になれば、就職活動から採用決定時(内定時)には、仕事のみならずその他ものもの人生色々紆余曲折世間一般、考えなければならない事が多過ぎる程様々である。それと、もうひとつ言える事は、今の世の中、大器晩成は中々輩出し難い。排出はし易い。先手必勝とは言うものの、制度からしてそうなっているのには問題もある。先行逃げ切り型ばかりでは、ちと、面白味に欠ける。最近は、プロ野球のペナントレースさえそれで決まってしまう傾向にある。競馬が流行るのも分かるような気がする。
猫を遊んであげていると、ひょっとしたら自分の方が遊んでもらっているのでは、という疑いに揺さぶられてしまった偉い人のお話を御存じでしょうか。
先日、こんな事を言う友達が居た。猫や犬は何も考えていないから、幸せだ。人間だったら、悟りだとか修行などによって無我の境地にでもなれなければそんな訳にはいかない。そのためには、無理をしてでも、何かしなければならない。だが、猫や犬は生まれながらにして、皆等しく無我の境地だ。前世で善い事をしたら現世では人間になる、というのは嘘で、本当はその反対なのでは。
刺激が足りない、などという言葉が以前流行ったもんだが、実際世の中刺激だらけである。結局は、刺激が飽和状態となってしまい、慢性的不感症となっているのが実情のようであるが、だからといって、度が過ぎるから何とか、などと言ってしまって簡単に片付けてしまう積もりはない。これも物質文明の為せる業かと思いもしたが、科学の発達に対する神の怒りを副作用と言うのだそうだ。
しかし、今の若い者は恵まれている何て簡単におっしゃる御年配方の御不満には素直に頷く訳にもいかない。皆が揃いも揃って必死になれた何てそんな時代が滅多矢鱈とあるもんじゃない。
ところで、この『刺激』というものだが、人間には無くてはならぬものだ、と聞いている。金融政策だとか財政政策だとかは、これによって経済の動きを調整するという。又、心理学では誘因だとか動因だとか呼ばれるものがこれに当たる。色恋沙汰には、誘惑というものがあるが、挑発的な女と挑戦的な女とでは大分意味が違ってしまう。
人的資本という言葉を耳にされたことはありますか。 俗に『身体は資本』などと言えば何と無くお分かりいただけるかと思いますが、教育、訓練によって労働者の資質が向上して生産性が高まり、労働者の収入が増加する状況から、技能や熟練は資本にみたてられ、教育や訓練は人的資本を増加させる手段であり、ある種の(人的)投資であり、その結果得られるものはその報酬であるから、人的資本に対する投資収益なのである、とざっとこんな所であります。
こんな話を聞かされると、何だか随分堅っ苦しい事を言うもんだ、とお思いになられるあなた、そんな事言ったってあたし達人間だもん、と少々御立腹されたあなた、何だかよく分かんない、と斜め読みされたあなた、事はそれ程難しくはなく、単に、高校位行こうかな、とか、大学も行っとこうかな、とか、英会話も専門学校も、と、取り敢えずでも一応でもみんながそうだからでも、そう言えば、車の免許も、とか、何でも構いませんし、お金になるからでなくても何かになりそうだからでも面白そうだからでも、とにかく後で何かのためになる、だとか、こんな時こんな事が出来たら、何て思ったりしてする事全部を『投資』とみなしたら、自分自身は『資本』だな、とそういう事であります。だったら最初からそう言えっ、とおっしゃるあなた、私も今そう思いました。又、ちょっと違う話になりますが、趣味でお稽古事なり楽器の演奏なりなさろうとするのも、その練習は『投資』であって、その場合の『報酬』なり『収益』とは楽しく思える事なのであります。
しかしながら、注意を払って欲しい事なのですが、この事が人間の側面である、という事でありまして、つまり、そういう見方が全てではないのですから、当たり前ですが、他にも何かある訳ですし、普通、我々はいちいち今『投資』をしている、だとか、プレゼントを送った、これは『投資』だ、だとか、あらっ、お返しがあった、これは『収益』だ、何て考えてたらちっとも面白くないでしょう。そうではありません。たまたま学者や偉い人達がそういう見方で世の中の動きを説明しようとするだけの事であります。
側面と言いましたが、皆さんは、意識してか無意識なのか分かりませんが、日本人平均は教育なり訓練によって、自分にとっての付加価値が高められている、そういう側面がかなり、世界的にも驚くべき水準にある事を御存じでしょうか。
私は何も差別論者ではありませんから、ひょっとしたらそういう風に聞こえるかもしれませんので、付け加えて置きますが、遺伝なり先天的要素など、あるいは、自分に関係する事で自分の力の及ばない所、例えば、家族、家柄だとか、身体に関する不具の障害だとか、それは、つまり、自分ではどうしようもない事でありますし、この部分でとやかく言うのを『差別』だと私は心得てますが、広義には学習と呼ばれる後天的発達によって習得される部分、私はこの後天的要素のみを社会的には人間として扱うべきであると思うのですが、又、自由と平等に基づく民主主義の成熟はこの如何に依存すべきであると思うのですが、それはさておき、この学習によって習得される部分に於いての教育なり訓練の成果が、今日、日本の(繁栄の)土壌となっている事を考え合わせれば、何とも素晴らしい事ではないでしょうか。この事はいかなる社会、国、地域、民族であっても、努力なり方法の次第によっては富を得、繁栄をもたらし得る事を意味するものなのであります。同時に現在数多くのアジア地域諸国でも似たような取り組みがされているのであり、今日、アジア地域全体は、ヨーロッパ地域全体、アメリカ地域全体にGNPで肩を並べるようになり、追い付き追い越す勢いなのであります。
「今年は雪がないからキャンセルばっかりで頭に来てんでしょ。」
「私はそういうのじゃないから。」
「えっ、何それ。」
「私は添乗員とかで行くから。」
「テンジョウイン、ってツアーコンダクターの事?」
「うん、そういうの。」
「そういうのってどういう事ょ。」
「去年二級は一応取ったんだけど、添乗員で行くから、そういうのやってるの。」
「へぇ凄いねぇ。そういうのなんだぁ。で、就職とかはどうすんの。ユーターン、それともこっち残るの。」
「こっちですると思う。」
「そうかぁ、何か考えてんの。何か特別やりたい事でもあるの。」
「ぅん、そういう訳でもないけど。」
「そうかぁ、何でも出来るひとだもんね。スキューバにスキーに英語にワープロかぁすごいすごい。」
「ワープロは習ったの。一応、画面は見なくても手だけ動かして打てるようになったの。」
「嘘ぉ、ぁじゃあもう俺より全然すごいや。」
「あっ、でも私ローマ字変換なの。」
「あっ、でも今そういう人増えてるよ。あっ、でもやっぱちょっと遅いかな。」
「うん、まだ少し遅いけど、あっ、でも、結構もうちゃんと普通に、ちょっと遅いけど、そんなに、ぅん。ローマ字だったら広く使わなくて済むから。」
「ぇ。ぁあ、手ぇ小さいもんねぇ、ハハッハハハッ。」
「ハハッ、ハハッ。ひらがななんだぁ。」
「ぁぁぅんそうだけどぅ、ぁでも俺は見ながらじゃないと駄目だよ。」
「ぁっでも、私、最近目が悪くなったの。よく、見えなくなったの。」
「えっ、コンタクトとか眼鏡とかって、してなかったっけっ。」
「私裸眼!」
「嘘ぉ、眼鏡してたじゃん。」
「してたけどぉ、コンタクトはしてなかった。眼鏡はぁ黒板の小さい字とか見えないから、したりするけどぅ。普通は裸眼だった。」
「それは知ってるけど。」
「ぁっでもよく見えなくなったの。ワープロの字とかもよく見えなくて。」
「そうかぁ、俺は全然大丈夫だけどぉ、暗いとことかでぇ本とか漫画でも読んでも全然大丈夫だけどぉ、明るくしてても知らないうちに影になってる時とかってあるじゃん。」
今日、日本の学校教育のあれやこれやと言われるようになって久しいが、海を越えた亜米利加さんではもっとひどいという事だ。確かに、太平も過ぎれば洒落も猾稽もあったもんじゃない。
何でも、米国では子供が学校に行かなくて困っているのだという。困るの困らないのって、馬鹿言ってんじゃねぇ、とも思うが、事はもっと深刻なのだそうだ。何でも『学校へ行き賃』を与えたらどうかと議論が沸騰しているとのことで、沸騰する前に火を消しちめぇば良いものを、いくら議論が好きだからってそんなぐたぐた言ってる内に事はどんどん悪くなっちまぅ一方だっつうのって言おうにも、実際その通りなのだという。呆れたもんだ。
で、この『学校へ行き賃』だが、その言葉の通り、学校へ行かせるためにお金を与えるというもので、誰でも、テストで何点取ったらいくら貰えるだとか、基本給があって歩合制になっていれば何て何で勉強しなくちゃいけないの何てブーブー言いたくなる時もあったかと思うが、そんなんになった試しはなかったが、その内怒ったって疲れるだけだから、と諦めてしまったり、どうしたら良いんだろう、何て考えてる間に勉強しちゃった方が早いや何て気にもなったりして、そんな事はすっかり忘れてしまっていた。が、米国のいくつかの学区ではそれが実現の運びとなったそうだ。
これには私も驚いてしまったが、流石に米国人は諦めない、頑固だ、何て褒めてどうする。歴史の教科書から知る限り、学校何ぞ行かんでも良いが田畑の手伝いを優先させて何が悪いか、何て飯もろくすっぽ食わされないで子供何ぞはこき使われてた時代もあったというのに、今では、政治やら教育界やらのお偉いさんがそこまでして子供に学校へ行かせようと頭を抱えているのだという。何を老いても米国は一歩リードしている、何て誉めてどうする。子供も出世したもんだが、そういう問題ではない。
アメとムチではないが、人間形成をしていく上で教育に於ける褒美と懲罰とは常にその必要性を論じられるもので、これに当てはめれば、米国の教育では褒美が足りない、という事になる。
それで、学校に一日いる生徒には褒美として直接お金で五ドル与える事になったのだという。
これに対する極めて好意的な解釈では、覚醒剤を売れば一瞬のうちに何倍もの金が入るのだから、そんな事で子供を引き止められる訳がないという批判になってしまい、米国の子供は随分高ピーである、容赦の無い者は、そんな金は賄賂に等しいとこきおろすそうだ。
私に言わせれば、それが仮に効果のあるものだとしても、5ドルを手にした事で学校に居る退屈と計りにかけるかどうかという問題になってしまい、学習意欲には到底つながらないだろうと思えるし、もしかして、それが耐性の強化に通じてしまえば、その点では有効な策となり得る、という事でもあろうか。何にしても、相応という事が分からなくては始まらない。相応というと単に意欲がないだとか保守的に聞こえるかもしれないが、私が言いたいのは、一つの努力と一つの満足である。よく満足が続いている人は良い、何て簡単に言ってしまう人が居るけれども、それは違う。部分的に見れば、それは必ず一つの努力と一つの満足があるはずで、満足だけを得ようとする人には、それが狡猾からにせよ怠情からにせよ、結局は略奪に通じてしまうから、サイクルするはずはなく、停滞し硬直してしまう。皆のため、などと軽々しく言ってしまうと誤解されるだろうから、敢えてきっちり言って置くなら、満足だけを得る、という事は人を踏み台にして他所から持って来てしまう事を前提とするのだから、自分の為であり人の為にもなる事でなければ続く訳がないのである。交換によって両者が得をする、それによって更に交換が促進される。それ故、両者は更に得をする。これが交換の基本であり必要性でもある、と考える。つまり、一方だけが利益を得るのであっては(それは交換ではなく略奪だと言えるが)、略奪が出来たところで、あるいはただ甘えているだけであっても、依存、には変わりがない。依存ではサイクルしない。そのうち相手が居なくなっても不思議ではない。つまり、一人でやってかなければならなくなる。私は結局人間は一人では生きられない、という事が言いたいのよりもそれ以上に交換の出来る事は、自立、を意味するものだと言いたいのである。そのためには土壌が必要となり、サイクルのきっかけが必要となる。
学習には元々動機づけというものが必要になるが、育児の段階では、母親を中心とした回りの世界からの働きかけがそれに当たり、それは同時に世の中で人間はひとりでは生きられないという事の一番の例えでもあり、又、成長と進歩はそういった働きかけと同時に自らの学習の二つによって成るものでもあるのだが、褒美と賄賂とでは基本的な違いがあり、簡単に言えば、褒美とは、褒めること、褒めて与えることであり、賄賂とは、不正な意図で他人に金品を贈与することであり、あまり違わないが、そういう御(誤ではないかという人も居る)時世だが、不正か不正じゃないかの違いは、動機づけが効果的かどうかにはあまり関係が無いのかもしれない。
「ぅんぅん、ひとりで行ったの。」
「またひとりでぇ、タフだねぇ。」
「あっ、でも、向こうで学校に行ってたから。」
「あっ、でも、つよいつよい。お父さん元気ぃ。」
「元気じゃない。」
「お母さん心配してないぃ。」
「心配してるんじゃない。」
「今度はいつ帰るの。」
「分かんない。帰るか北海道に行くか迷ってんの。」
「ほんとに、今いくつだっけぇ。」
「にじゅうにぃ。」
「ハハッ、そうだよねぇ、当たり前だよねぇ。でも十六位かな。」
「やっぱり背が低いからかなぁ。」
「別にそれは関係ないんじゃない。その分体重も少ないから大丈夫だよ。」
「ハハハハハハ。童顔だからかなぁ。」
「あっ、でも、眼鏡かけてると結構仕事出来る人みたいに見えるよ。女の管理職何てのも良いんじゃない。」
「そんなのぉやだよぅ。」
「あっ、でも、会社に入ってお茶汲み何てのよりは良いんじゃない。」
「そうだけどぉ、それはそうだけどぅ。」 |
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