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拝啓、上野陽子様。お久しぶりです。お元気ですか?
私の方はと言えば、相も変わらず、毎日を無駄に食い潰すばかりで、退屈な日常に、もういい加減、飽き々々としている毎日です。貴方と別れてから、というか、正確に言えば、私が貴方を切ってから、8年の月日が経ちました。早いものです。私が貴方を切って、きっと貴方には幸せな毎日が訪れたことでしょう。私はと言えば、すさんだ日々の繰り返しでした。今、思い返しても、それはそれは虚しく、絶望的で、何ら期するところもない、悔いてばかりの、堕落と退廃と非官能的な、膨大なる時間を費やすことになりました。きっと 貴方の方は、せいせいとして、なんとなく解放されたような気持ちになって、それはそれは楽しくて、人生を満喫するような生活を享受されたに違いありません。違い、ありますか?羨ましい限りです。あれだけの大恋愛の揚げ句の果てが、貴方には至福を、そして、私には脱力を与えたのですから、人生というものは、誠に不思議なものです。
なんだか ただの愚痴になってしまっていますが、今日、貴方にこの手紙を書くのには、それなりの、それ相応の、ちゃんとした理由があるからで、何も貴方をねたみ、そしり、罵倒するがためではないこと、是非にでも付言せねばなりますまい。そのためには、あたかも文句を言うだけの切り出しとなってしまったこと、ここで、お詫びせねばなりますまい。
申し訳ありません。お詫び申し上げます。
話しを戻します。貴方にこれを書く理由なのですが、それは、私にもようやく新たなるもの始まりましたこと、申し上げます。実を言えば、今日この日のあること、感謝しております。お礼申し上げたかったのです。今の私があること、嬉しく思っておりますこと、それを、まずは貴方様にお伝え申し上げねばなりますまい。という訳で、筆を執るに足らず、ワープロに文字を入力しております次第であります。
こんな形で、お話しするのは、私にとっては、いざ久しく、正直を申せば、愉快なのです。
あれから、私は過去を過去として精算することができなかった。過ぎてしまったことにこだわり、こだわり続け、立ち直れなかった。半分は闘病のためと自らを偽り、それのせいにして、もう半分は、悲劇を嘆く、言わば、マスターベーションばかりの毎日でした。何度も何度も、いい時代を思い返し、貴方との戯れを回想して、それは、まるで録画されたビデオ・テープを再生しているかのこどきでした。ただ、その当時の私にとっては、それ以外に楽しみらしい楽しみがなかったのです。家にこもりっきりで、『再生』ばかりしていました。そればかりを思い、布団からも出ず仕舞の上に、全く、何と申せばいいのか、全く、そんな在り様でした。自らの過去に夢見ているようなものですから、本当に始末の悪い娯楽でした。けれども、それさえも私にとっては、唯一の楽しみだったのです。そして、贅沢な夢想でした。但し、貴方との『こと』は、私にしてみれば、今、ふり返ってみても、それだけの、そのくらい凄い大恋愛だったのだと思います。誇りにさえ思っています。そういう意味では、思い出を、ありがとう!という言葉も口にせねばなりますまい。ありがとう。
貴方との『出逢い』はパッションでした。そして、貴方への『思い』はファッションでした。
そう、私にとっての恋愛の形、それができたのは貴方様のお陰様以外の他の何物でもございません。貴方を好きになってから、11年が経ちました。『上野が大好き!』と、それをモットーに私は青春を謳歌しました。けれども、私は私の胸のうちを口にすることができませんでした。根っからの臆病者で、恋を知るようになってから、私はすっかり恥ずかしがり屋さんになってしまいました。貴方にはシャイの照れ隠しさえままなりませんでした。そう、貴方は私の気持ちを、それと気づいていたのですから。私が自身の自覚もない頃から、貴方は私のそれを見抜いてしまったのですから。そして、当の私は、貴方に自分の気持ちが見破られていることさえもつゆ知らず、それを感づかれまいと必死になっていました。 時折、貴方の言動や素振りから、もしかしたら、バレてしまったのでは? と、脅えることが度々ありました。滑稽です。
こんな戯言を今更ながらに白状してしまうと、なんだか貴方が私の初恋の『ひと』だと言ってしまっているかのようなものですが、ことの真実は、そうではなかったのです。私は中3の時に、確かに恋をしたと覚えております。それ以前にも一人か二人、好きな女の子がいたと、これも確かに記憶しております。そう言えば、小学校の時にも、いや、幼稚園の時にも、と、逆上っていけば、おそらくきりがないでしょう。但し、貴方と出逢ってから、それ以前の女の子は私の心から消えてしまいました。私の心は貴方でいっぱいになりました。貴方を思う
気持ちは、それ以前のそれとは比較にならないほどのものでした。貴方との『こと』があってから、それ以前のことは恋だとも思えないくらいでした。私は、心底、これが恋なのだと思いました。そういう意味では、貴方との『こと』は、それ以前までのものとは異質でもあったと言えましょう。貴方がいたから、私はそれを知ったのです。当時、私は、これって、初恋なのかな?と、本気で思っていました。そして、貴方は私の心を占拠した。その後も居座り続けた。やがて、住み家とした。私は貴方に征服され、それは支配に及び、私は貴方次第の男になってしまった。実に女々しいことです。当時の私は、貴方が私をもて遊んでいるかのような『錯覚』さえしました。しかし、それは私の思い違いではなかった。それは、貴方も後に認めるところだった。どうせなら、どうにかして欲しかった。どうにでもしてもらいたかった。だが、それは現実とはならなかった。まさか貴方が! と、私には貴方の気持ちが分からなかったから。
貴方がサークルには顔を出さなくなり、私は切ない毎日を打開することができず、結局、自ら諦めるという決断をしてしまった。告白すれば、よかったのですが、私には、そんな大それたことは思案にも浮かばなかった。そう、私は告白するという経験がなかったのです。それからの私は、私をかわいがってくれていた、女の先輩に、いっそのこと『甘えてしまおう』という大胆な思いつきがありました。女の先輩とは、貴方もご存じの通り、そう、小出さんの
ことです。派手で色気があって、大きな目をした、あの小出さんです。
小出さんは貴方とは違って、優しかった。いや、厳密に言えば、私のような不骨で不器用な『男』にも伝わるように優しさを表現してくれた。こんな『男』にも、『あたし』は『女』よ、と、分かるように愛情表現してくれた。優しかった。嬉しかった。貴方はと言えば、こんな『男』を、その気持ちを知っていながら、つっついたり、からかったり、『女』をちらつかせて、惑わせ、自分一人で相思相愛を勝手に楽しむようなところが、多分にあったと思います。でも、貴方も優しかった。今の私になら、よく分かる。貴方は優しかった。けれども、その頃の『僕』には、全然分からなかった。貴方の優しさも愛情表現も、『僕』には魅惑的で、幻惑されているかのようで、貴方は『僕』を壊そうとした。小出さんは『僕』を守ってくれた。
上野陽子様、こんな訳で、貴方と私は結ばれなかったのですね。残念です。後悔しています。未練たらしいようですが、はっきり言って『未練』です。
前略、上野陽子様。僕は修行層のような恋愛をしていました。いいえ、私は修行層のように
生きていたのです。いや、そういう生き方しか知らなかったのです。最近、松たか子の詩に、
『愛よりも恋よりも早く、貴方に出逢ったいたずらが…』というフレイズがありましたが、私は男の癖に、変にオトメチックで、妙にロマンチックで、純情に恋情が交ざると、心臓は
鼓動を爆発させ、脳みそはオーバーヒートしてしまうのです。貴方との『いたずら』は僕を
『駄目』にしてしまったのです。
中学の時は恋はまだ早いかなと本気で思っていました。高校生になると、大学に入ったら、と、密かに期待こそすれ、いざ大学生になってしまってからでは、なにぶんあまりにも準備不足で、『対応』できませんでした。それが実情でした。貴方との『いたずら』は、僕には刺激が強過ぎたのです。そして、貴方の童顔も、いかにも女の子らしい仕草も、弾むような動きも、背が小さいことも、時折、大胆に振る舞うことも、そう、貴方は誰彼人構わず、公衆の面前で、見上げるようにして、『僕』の視線に目を入れてくることがありました。僕は恥ずかしくて、下を向いてしまうのですが、そうすると、『おちび』な貴方の『童顔』が僕を直視するので、かえって恥ずかしくてたまらなくなってしまい、横を向いても頬が熱くなり、上を向くと心が裸にされたようで。
マロンくんとリボンちゃん、はじまりはじまり
マロンくんは海で育ちました。そして、まだ恋の味を知らない男の子でした。
恋とは食べ物ではありませんが、心でなら味わうことができるのです。いわば、恋とは心でしか食べられないものなのです。
リボンちゃんはとってもかわいらしい女の子でした。背がちっちゃくて、ひょんひょん跳ねるような動きのあるスキップスキップしたりして。リボンちゃんはまるでアニメーションの世界にしか現れないような童顔をしていました。
マロンくんは恥ずかしがりやさんでした。リボンちゃんは違いました。けれども、あんまりマロンくんが恥ずかしがってばかりいるので、リボンちゃんの方でも知らず知らずのうちに恥ずかしがる気持ちがだんだんと分かってくるようになりました。
マロンくんはただただ恥ずかしくてたまらないばかりでしたが、それがありありと伝わってくるものですから、リボンちゃんにはそれがとても新鮮に感じられるのでした。ときおり、リボンちゃんの方でも恥ずかしがってしまうことがありました。そして、二人は互いに互いを意識するようになりました。それが二人の恋の始まりでした。
マロンくんとリボンちゃん、二人の様子
おちびでポッチャリコンとしたリボンちゃんは、なわとびやまりつきが大好きでした。
マロンくんがプリプリしていると、リボンちゃんは下から、そうっと、じぃっと、身をかがめて上目使いに見上げます。そんな時のリボンちゃんはマロンくんの目をじっと見つめながら、マロンくんの様子をうかがうのです。マロンくんはおこりんぼさんですから、だって、
マロンくんは恥ずかしがりやさんなのですから、おこりんぼさんでもあるんです。
そんなマロンくんは機嫌が悪いとなかなか気がよくならなくて、リボンちゃんも大変です。心の中ではそわそわしながらも、何回も下からじぃっとのぞいたり、小首をかしげて笑い
かけたり。マロンくんのおててに手の平をのせて、もう片方の平はマロンくんの腕をぎゅっと握って、それから、優しくさするようにしながらなだめたり。あとは、ちょっと怒ったような真剣な顔付きをして、おててをぐいっとひっぱったり。ちょっとさみしがったり、笑顔をこぼしたり、口をとがらせてから口びるを吸いこんで十円玉より小さくさせてみたりして。
それで、マロンくんがくすくすしだすと、リボンちゃんは『アッハッハッ、マロンくんが笑ったぁー』と心の中で叫ぶのです。『やったやった』と浮き浮きしちゃって、でも、言葉や態度には決してださないように我慢しながら、目をきょろきょろさせて、おかしくても吹きだせ
ないから、瞳に蜜がたまります。
そんなリボンちゃんのちょっとした仕草にも、こんなにかわいいリボンちゃんなのに、
マロンくんはおこりんぼさんですから、顔を真っ赤にさせます。マロンくんには、そんな
リボンちゃんが自分をからかっているように感じられるんです。リボンちゃんにはそんなつもりはありませんでしたが、そんなやりとりをくり返しているうちに、いつのまにか、
リボンちゃんの方ではマロンくんの様子をうかがいながら、その反応を見て楽しんでいるようになってしまったのです。
リボンちゃんは「こぉわぁいー、こぉわぁいー」を何度も口にするのですが、ちっとも
こわがらないで、おめめをまぶたで下げて、本当に嬉しそうにします。
あぁ〜、なんてほほ笑ましい二人の様子なんでしょう。
リボンちゃんのまばたきはパチリンコパッチリコン! おちびのくせにちょっとそらを使って、少し笑ったりうつ向いたりします。
そんなリボンちゃんのおすましを見ると、マロンくんは笑かそうとしたくなるのです。
リボンちゃんはおかしくてもおかしくても絶対に、はしたない笑い方だけはしないようにするのですが、『アッハッハッ、ほんとにマロンくんって、おもしろいんだから』と、胸のうちでつぶやきながらクスクスと笑んでるうちに、なんだかとってもおかしくて顔がくしゃ
くしゃになります。女の子ですから『そんなに何度もそういう風にしたらいけないのぉー』と、リボンちゃんは、だから、お口をおててでおさえてもおさえても吹きだしちゃって、結局、顔はくしゃくしゃのままです。
マロンくんはリボンちゃんと一緒にいるというだけで、恥ずかしくてたまりませんが、なんとかしてリボンちゃんを笑かそうと一生懸命になってがんばるんです。マロンくんは
リボンちゃんのくしゃくしゃの顔が大好きでした。
上野陽子様、私は貴方のことを『無垢』だと思っていたのです。
貴方は自分ではペスミスティックだと、よく口にしていましたが、それから、口癖のように、あたしは消極的だからと おっしゃっていましたけど、全然そうじゃない。のに、そう見えるんだから。
覚えてますか? 私が貴方の、ちっちゃな頃の写真を見せてもらった時のこと。
「かわいかったでしょう」
「うん、今よりこの頃の方がいい」
「えっ!」
「何?」
「どういうこと?」
「だから、この頃の上野の方がいい」
「じゃあ、今のあたしは?」
「駄目」
「どうして?」
「この頃の上野はいい子」
「今は?」
「今の上野はもう悪くなっちゃったように感じる。上野は変わったんじゃない? この頃はいい子だったと思う。この頃の上野に会いたかった」
「今のあたしより、この頃のあたしの方がいいって言うの?」
「うん」
「本気で言ってる?」
「うん」
「それって、ロリコンなんじゃない?」
「どうして?」
「だって、この頃のあたし、いくつだと思ってるの?」
「いくつでも、この子はいい子」
「やっぱり、ロリコンなんじゃない?」
「そうかもしれない」
「そうかもしれないって」
「でも、見た目はあんまり変わってないよ」
「えっ?」
「あっ、だから、見た目は今の上野と変わってないよ」
「馬鹿にしてんの!」
「うんうん」
「……」
「……」
「ねぇ、ちょっと落ち着いて、ね、ね。ねぇ、今の『あ・た・し』より、この頃の『あ・た・し』の方がいいって言うの?」
「うん」
「……」
「……」
「ちょっと待って、じゃあ、今のあたしは?」
「悪い子」
「そんなことない」
「そうかなぁ」
「そんなことない」
「そう?」
「そう」
「でも、やっぱり、こっちの、この頃の、写真の上野の方が、いい子だと思う」
「今も変わってない。この頃より見た目は変わってるけど、中味は変わってない」
「変わった」
「変わってない」
「変わった」
「変わってない」
「……」
「……」
「ハッハッハッ、変わってないよ。見た目も」
「……」
「……」
「ちぇーちぇー」
君は、この時、瞳に滴(しずく)を浮かべていたね。ごめんね。
でも、僕は君のことが大好きだったんだから、多分にロリータ・コンプレックスの気はあったことになると思うんだけど、なんてね。 怒った?
マロンくんとリボンちゃん、あのねぇ、リボンちゃんは……
リボンちゃんは『おちび』でしたが、実は、とっても『おねぇさん』でした。だから、マロンくんが自分では気づいてなくても、マロンくんがすでに恋をしてしまっていることも、リボンちゃんはよく分かっていました。もちろん、その対象が自分だということも、リボンちゃんは確信していました。
ただ、そんなマロンくんをどう導いたらよいのか? ということにはリボンちゃんにも苦労がありました。
恋の経験がなく、そして、自分が今、恋をしているんだ! というハッキリした自覚もない者に、そうなのだと悟らせることほど難しいことはありません。いくら『おねぇさん』だとは
いえ、このことはリボンちゃんが越えなければならない、大きな大きな山でした。
そのうえ、なかなか事が進展していかないことに、リボンちゃんは焦りさえ感じることが
ありました。確かにマロンくんとお話しをすると楽しいし、ときおり、恥ずかしさから
マロンくんがおこりんぼさんになってしまう時に、なだめたり、つっついたりすることは
リボンちゃんにとっては欠かせない喜びとなっていました。けれども、リボンちゃんはそれ以上の関係をマロンくんとの間に切望していました。
抱かれたい……
しかし、リボンちゃんの方では、もうそこまで求めているのに、マロンくんといったら、
リボンちゃんを意識するとヘナヘナになってしまうのです。それもリボンちゃんを思っていることの裏返しなのですが、ほんとにマロンくんったらじれったい!
でも、リボンちゃんの方でも変にオトメチックなところがありました。
それは、やっぱり男の子の方から告白されたいという気持ちです。これは、女の子なら当然のことです。
ただ、相手はなんといってもマロンくんですからぁ〜。
それでも、リボンちゃんは、いつかマロンくんの方から、と、それまでは気長に待ってみようと気持ちが落ちついていくようになりました。それまでは辛抱々々。辛抱々々、と、
にぎりこぶしを作って、えいえいとポーズするリボンちゃんでした。
君に対する僕の直感は当たっていた。残念なことに。君は既に『女』だった。でも、それが許せないんじゃない。確かに君のイメージが崩れそうで、その頃の僕には、ひょっとして?って想像するだけで、心の中では、違う! 違う! って叫んでいたけど、君は『道具』としての『男』を常に必要とする『女』だった。そして、君はそのことを隠そうとした。更に、それが隠せないことを知ると、心と体は違う、だとか、心は変わってない、だとか、心はずっと僕のことを思っていた、だとか、おまけに最後には直り切ったのか、あたしは処女、とまで、大きな叫び声をあらげたりした。
でも、ありがとう。だって、上野は、僕のために、写真の、ちっちゃな頃の『上野』を演じ続けてくれたんだもんね。ごめんね。折角、待っててくれたのに。上野は本当に女の子で、やっぱり女の子だから、男の子の方から『言ってくれる』のを、気長に待つことにしてくれたのにね。僕は馬鹿だった。大馬鹿だ。だって、僕は一人で勝手に結論を下して、かわいがってくれそうだった、女の先輩の、小出さんの方に、すっ跳んでっちゃったんだから。
正直に話すと、確かに小出さんには入学当初から憧れてたんだぁ。でも、こんな素敵な、大人の女の人が自分なんかを相手にしてくれる訳がないって思ってたんだぁ。だから、結果としては、小出さんを好きにならなかったんだけど、みんなでワイワイ飲みに連れて行って
くれたり、かわいがってくれたし、小出さんの言うことを聞いていれば、大学生活は楽しく過ごせる、なんて思っちゃったりはしてたんだよねぇ。だって、最初にサークルに入る時に説明してくれたのが、実は小出さんだったんだけど、びっくりしたもんなぁ。
サークルのガイド・ブックを読んで、このサークルに入ろうと勇気を振り絞って門を叩いてみたところ、実際は門なんてないけど、こういう時こういう言い方をして、それで分かってもらえるかって別に分かってるけど、こういう時そういう意味でこういう言い方をして、
それで分かってもらえるかなって、ちょっと不安になって、でも、分かってもらえると思うけど、なんだか偉く大層なことに聞こえないかとか、少し気になったから言ってみただけだけど、実は意外と大層な気分になって、乗り込んでみました。
すると、意外と奇麗な『おねぇさん』が おせぇてくれました。
最初に目があった時、このひと、俺のこと好きになるかもしれない、なんて馬鹿な気が湧いたけれども、滅多に思うことでなし、大きな二重の、猛々しい眉の、赤茶のかかって肌に行き渡る、あくの強くて肉付きのよい重厚な彫りに、世の俗に背を向けていた僕は、しばらく声が出なくて、大きな眼が随分大きく見えて、耳に栓をされたみたいに、喉が詰まったみたいな、眉が反り上がって、言わざる聞かざるよく見える、みたいな、気持ち薄ら浅く黒の通る、血の気のあぶり出す面の、ソバージュの長く肩から上腕に裏に流れる、パッと見、安っぽい遊び女に見間違うかの情恋の漂ひと小窓から差す日のあるかなしかのぼんやり、うつ伏す様かの哀愁に長く伸びる瞼の開閉の妙や、顔色の向きの心なしか鬱げなるやあらん。
「整形手術なんかじゃ真似できない顔だよね」
「それって、どういうことなの?」
「だから、人間らしい、人間味のある肉付きで、重厚なんだよ」
「それって、顔に肉があまってるって言い方にならない?」
「ハハッ」
「それゃ、生まれてから一度だってゲッソリやせたことなんてないし、一度くらいは
ゲッソリって感じにもなってみたいけどね」
と、頬の肉をつまんで、長い目つ毛をパチクリさせて、太い視線はどこ吹く風。
なんて、やりとりもあったっけ。
もっと正直に言うと、僕は小出さんと知り合った頃から、どうせ彼氏になんかしてくれる訳はないだろうけど、一度『お願い』してみようかな。一度だけって『お願い』してみようかな。なんだか随分と僕のことをかわいがってくれているようだし、もしかしたら、一度だけって、お願いしたら、頭をこすりつけて、お願いしたら、案外あっさりと、よし、分かった、なんて、ひき受けてくれそうだったし、なんとなく、いいわよ、なんて言ってくれそうな気もしたし。だって、僕だって『男』なんだから、こんな『いい女』と『御一緒』できたら、なんて思ったら、それは、いけないことだろうか?今、『いい女』って小出さんのことを言ったけど、その頃の僕にしたら、小出さんは女神様で、それを『いい女』なんて称するのは失礼だ! なんて思うくらいに僕は小出さんをあがめていた。でも、女神様に対して、そんなことを思ったら、いけないいけないという意識が働くものの、やっぱり小出さんは大人っぽくて、色気があって、僕はそれを感じると、煩悩だ、煩悩だ、と、自分を戒めた。やっぱり、いけない。いけないいけない。
こんなこと、上野に直接話したこともあったね。上野は怒ってたけど、言葉のやりとりの
乱打戦が続くうちに、上野は泣き出してしまうように、
「やっぱり、小出さんのことが好きだったんでしょ」
と、涙がこぼれ落ちそうだったね。僕は僕で正直で対抗していた。それで、別に何を意図しているっていう訳でもないのに、この言葉を聞いて、上野は嬉しそうにしていた。さっきまでの涙声が嘘のように、やったやった、それならいいって、僕には訳が分からなかった。
「だから、修行して、男を磨いて、それから、もう一度、上野にチャレンジしてみよう、なんていう思いはあったよ。でも、『もう一度』って言ったって、その前にチャレンジするだけの勇気もなかったし、臆病だったし、恥ずかしかったし。でも、言うだけ言ってみれば、よかったんだけどね。そしたら、随分と『いい思い』ができたのにね。馬鹿だね。実際は、あらぬ方へと、変なところにすっ跳んでっちゃった訳だからね」
気が狂いそうな涙声が、この言葉で鎮静化されたよね。喜んだり狂ったり、もう目茶苦茶だったよね。でも、あれだけ言い合って、言い争って、もめて、どなり合って、どなり返して、それに、ぽつぽつと、あの時のこれはどうだった?なんて語り合える、いい反省会もできたしね。よかったね、本当に。お互いのためにね。
「だから、本当に小出さんとは何にもなかったんだって」
「そうかなぁ。あたし、絶対に体の関係があったと思うんだけどなぁ」
「なんで」
「だって、そうとしか見えなかったもん」
「だから、それは絶対にないっていうの」
「そうかなぁ」
「だから、そんな、ビービー泣かなくたっていいでしょ」
「別に泣いてない。人前では絶対に泣かない」
「じゃあ、そんな声 出さなくたっていいでしょ」
「だってぇ」
「だって、何」
「だって、そういうように見えたもん」
貴方は私と小出さんとの間柄が、実はもっと深いものだと思っていたようでしたね。貴方は私と小出さんとの仲が、実際よりも もっと親密なものだと考えていたようです。そして、貴方は貴方らしくもなく、涙声でした。無理もありません。この時、私は本当に貴方は胸が痛む思いをされたのだと感じ入りました。見ている私の方にまで、その痛みが感じられるようでした。そのくらい、貴方の、強く弱い気持ちのあふれる、表情であり、声であり、様子でした。私は、これはなんとかして誤解を解かなければ、と、それは、私自身の身の潔白を証明するのと同時に、貴方の痛みを癒してさしあげなければ、という心持ちだったからです。私は懸命に事実を訴えました。その途中では、かえって貴方を更に傷つけてしまうかもしれないと思いもしましたが、自身の潔白と、私の貴方に対する思いを明かすということ、そして、貴方の傷を今からでも、少しでも、いや、できれば全くなくなるぐらいにまでやわらげてさしあげたいという思いで、私は全力を尽くしました。私は必死でした。そう、真に命懸けの思いで、私は貴方に訴えたのです。
「だからね、正直に話すと、一度、上野のこと 諦めたんだ」
「どうして」
「それは、今になってみると、全然大したことじゃないんだけれど、でも、その頃の俺には、そんな些細なことでも辛く思えるくらいに、上野のことが好きだったんだ」
「じゃあ、どうして、諦めようと思ったの」
「このままじゃ、身が持たないって思ったんだ。ほんと、このままじゃ辛くて辛くて、生きているだけで、苦しかったんだ。それで、逃げちゃったんだ」
「それで、小出さんのところに行っちゃったんだ」
「っていうかね」
「それで、男と女になったんだ」
「だから、そうじゃなくて」
「そうでしょ。そうに決まってるでしょ。それで、そういう関係になったんでしょ」
「違う」
「……」
「だから、大学に入って、いつのまにか上野のことが好きになっちゃったんだ。それも、だんだん凄く、もの凄く好きになっちゃったんだ。 でも、俺はそういうこと、苦手だったから、どうしていいかも分からなかった。 電話も かけれなかった。ずっーと、電話 眺めてたり。番号を押してるうちに、『あっ、まずい』って怖くなって、受話器置いたりして。たまに、一回か二回コールするところまでいくと、心臓が破裂しそうになったり。ましてや、そんなこと してみたかったけど、本当にそういうこと してみたかったけど、デートに誘うなんて、滅相もない、なんてビクビクしちゃったり」
「一度も誘ってくれなかったね」
「誘いたかったけどね」
「でも、分かんなかった?」
「分かった」
「じゃあ、どうして誘ってくれなかったの」
「分かった時は、もう遅かった」
「小出さんと、できてちゃってたってこと?」
「別に、できてた訳じゃないんだけど」
「じゃあ、やっぱり、好きだったんでしょ」
「そうじゃない」
「どうして」
「だから、それは違う」
「どうして!」
「違う!」
「……」
「だから、上野が大好きだったんだ。もう、毎日、死に物狂いで、耐えられないくらいに、好きになっちゃったんだ」
「じゃあ、どうして」
「だから、諦めたの」
「どうして」
「そんなこと 恥ずかしくて言えない」
「もしかして、学祭のこと?」
「そう。こんなこと恥ずかしくて言うつもりもなかったけど、一発で当たったから、そうって言えるけど」
「なんで。だって、あれは」
「だって、俺は責任者だったんだよ。それなのに、上野は かけもちなんかするから。 俺が
責任者なのに、かけもちなんてされたら、まぁ、これは無理だなぁって思うでしょ。少なくとも、その時の俺には そうとしか思えなかった」
「ごめん」
と、上野は両の手を重ねて、拝むようにしながら、目を細めて、僕を見つめた。それは、学祭でかけもちになっちゃった時に、上野が謝ったのと、同じポーズだった。
「結局、小出さんとは、いつから付き合ってたの?」
「だから、付き合ってないっていうの」
「あっ、もう、気持ちは分かったから、別に嘘なんかつかなくてもいいから」
「だから、嘘じゃないの」
「だって」
「怒るよ」
「ごめん。ごめんね。だけど、じゃあ、どうして」
「だから、上野を諦めて、小出さんに電話したんだ」
「じゃあ、誘ったんでしょ」
「だから、そうじゃないって」
「じゃあ、どうして」
「だから、小出さんには何回か飲みに連れて行ってもらったことがあったんだ。でも、二人で、じゃないよ。それで、又、気分が晴れるかと思って、飲みに連れて行ってもらおうかと思って、それで、電話したの。そしたら、みんなで?それとも二人で? って言われて、びっくりしたよ」
「それで、行ったんだ」
「行ってない。だけど、そんなことから、授業が一緒になったりして、一緒に授業に出たりして、それから、お昼なんかも一緒に食べるようになって、それで、授業をサボって、遊びに行ったりして」
「それで?」
「それで……
小出さんは『女神様』だったのに、だんだんと『女』を見せるようになってきた。そのうち露骨になってきた。そして、それは、どんどんエスカレートしていった。僕は『お守り』に手が生えてきて、そのうち、顔までハッキリ見えてくるようになった。そんなようにさえ感じられた。まさかこれが本当の小出さんの姿だったとは!
「ねぇ、女の子が一緒に温泉とかスキーとか、泊まりでしか行けないようなところに、一緒に行こうって言ってきたら、どういう意味になるか分かる?」
「えっ、どういうことですか」
「だから、それは全部OKってことよ」
と、小出さんはウィンクした。それから、しばらく何気のない会話をしていたんだけど、
「ところで、一緒にスキーに行かない?」
それからの小出さんは、ますますボルテージが上がっていく一方で、僕は防戦一方だった。確かに小出さんがいたから、上野のことで苦しんでいた僕はここまで回復できたんだ。でも、上野のことを本当に諦められるだろうか。たぶん、それは無理だ。でも、小出さんが今、もしいなくなったら、僕はどうすればいいんだろう。小出さんは、まともに女の子と会話のできなかった僕の、色気のない、とても男女が二人でするようじゃない、くだらない話しを、うんうん、と、いつも真面目に聞いてくれた。それから、男と女について、色々と教えてくれた。
僕が それなりに男とか女とかについて分かるようになってきたのは、小出さんのお陰だ。そして、何より、傷心の僕の、これ以上はないくらいの、『いい話し相手』となってくれた。
時間を一緒に過ごしてくれた。二人だけの空間で、優しく見守ってくれた。でも、次第に小出さんが、女として、僕に接してくるようになった。僕は、女としての、小出さんには苦しめられた。小出さんは色気が凄かったし、そういう意味では、ちょっとした加減で、ただ、一緒にいるだけでも、緊張しちゃったりすることもあったのに。だんだんと、だんだん、小出さんは、如実に『女』を露(あらわ)にするようになってきたから。特に凄い時には、そういうホテルの前で立ち止まったり、僕はこんなことも言われたりした。「女の子の方から、手の平に乗っかっているのに、握らない男はいない!」なんて。そして、ついに、こんなことまでするようになった。
「ねぇ、ちょっと行きたいところがあるんだけど、付き合ってくれない」
「別にいいですけど」
「じゃあ、ちょっと行こう」
と、小出さんに言われて、ついて行ったら、連れて行かれたのは不動産屋だった。
「ねぇ、ちょっと一緒に探してよ。こんなとこ、どうかなぁ」
なんて、小出さんは僕を、その大きな目で食べているようだった。
それから、しばらくして、僕は就職活動に忙しくしていた小出さんに、こう言われた。
「ねぇ、ハウスキーパーなんて、どう?」
僕は小出さんにプロポーズされた。どうやら、僕と小出さんの関係は、どうやら動かし難いところにまできているんだと、僕は思った。肉体関係を迫られていた僕も、『僕でよかったら、どうぞ、よろしくお願いします。どうぞ、もらってやって下さい。 どうぞ、お好きなようにして下さい』と、いつ返事しようかと、いつ、いつ、とは思っても、小出さんの迫力と魅力の前では、恥ずかしくて僕はオドオドするばかりだった。あぁ、僕は結婚する。その前に僕は自分を小出さんにさしあげなければ、と、それを言わなくちゃ、言わなくちゃ、とは思いながらも、やっぱり、恥ずかしくて。でも、それは恋情感とはおそらく異質のものだったと思う。僕はそういう男女の関係があってもいいと思った。そういう結婚の在り方があってもいいと思った。いや、昔風で、かえって、この方が自分には向いているのかもしれないとも思ったりした。そんな折りも折りに、僕と小出さんと図書館で、肩を並べて、座って、一緒に仲良く勉強しているところで、上野とバッタリ出会わしてしまった。僕は気が沈んだ。やっぱり、まだ、上野が好きなんだ。でも、僕は今、小出さんと、こうして一緒にいるのが当たり前のようになっている。そうなんだ。そういうことなんだよ、上野。小出さんは僕が上野にふられたと思っていたから、あてつけのつもりで、わざと普通以上にいちゃついてくれた。僕も、実際は、上野にふられた訳じゃなかったんだけれど、そんな気分だったので、小出さんの動きに合わせていた。すると、上野の素振りがどうにも おかしくなったのだ。瞬きをバチバチさせて、気づかないふりをしているようでもあるし、気づいているから、こっちには分からないように観察しているようにも感じられた。僕は戸惑った。それから、しばらくすると、上野は泣いてしまった。そして、回りの女友達が手を引っ張ってまでして、上野を連れて行こうとして
いるのに、上野は抵抗していた。その時、初めて、僕は自分の目を疑った。そして、もう、訳が分からなくなってしまった。
それが大学二年の夏だった。
それから二〜三日の間は、テスト期間中だというのに、僕は家でぐったりとしてしまって、寝込んでしまった。もうどうしていいのか分からなくなってしまった。何が何だか、でも、僕は、今、重要な決断をしなければならないのだということだけは強く意識していた。そして、ある種の強迫観念のようなものに襲われていた。けれども、僕は決断できなかった。
その日、保健体育の筆記試験があったので、僕は学校に行くことにした。何をしていいのか分からなかった、この二〜三日、僕はテスト勉強をするというよりも、友達から授業内容をコピーさせてもらっていた箇所を、とにかく書いて書いて書いて書いて、それは、何かから逃れるためだったのに、事実を直視できないだけのことだったのに、知らず知らずのうちに丸暗記してしまえるくらいだった。それに、保健体育だけは再履修になったら面倒だと思って、これだけはサボれないと思ったし、そろそろ学校に行こうかなという気にもなれたので。テストは完璧だった。けれども、学校に来たら来たで、なんとなく気が弱くなってしまった。それから、何故かしら、素直に家に帰る気がしなかった。それで、学校にある、本や文房具の売店に顔を出してみることにした。ドアを開けた瞬間、レジのところで会計を済ませようとしている上野を発見した。お互いに、バァーンと目があったのに、そして、おそらくお互いに、それに気づかれまいと、すばやく視線を外してしまった。目があってバァーン、視線を外してバァーン。瞬間的に、バァーンバァーンという感じだった。全くの偶然だった。 そして、
衝撃的だった。それにしても、なんだか上野の体が弱っているように感ぜられた。それを
見て、僕は血だらけになってしまった、僕の心が、又、うずきだしたような心持ちになった。僕は上野のすぐ横にまで辿り付いたところで、そのまま通り過ぎてしまった。声はかけられなかった。それでも、本を選んでいるようなふりをしながら、上野の様子をうかがっていた。上野は、たくさん本を買っていた。それを見て、僕は、尚更、胸に痛切なダメージを加えられた。上野がかわいそうだ。上野の後ろ姿が悲しかった。哀愁が漂っていて、色の香りさえ放っていた。上野が かわいそうだ。
「ねぇ」
と、背後から声をかけた。そして、上野の肩に手をかけて、ぎゅっとつかもうと力を入れようとしたら、上野はそれをふり払うように避けた。『やめてよ。触らないでよ。関係ないでしょ。そんなに慣れ慣れしくしないでよ』上野は体の動きで、そんなことを口にしているようだった。表情も痛々しかった。それで、僕は打ちのめされた。すると、上野はガラリと様子を変えて、何気のない会話を始めた。僕は一瞬、ハッとなった。上野がサークルには顔を出さなくなってから、たまにバッタリ会った時には、いつも「元気?」と聞いても、「元気じゃないの?」と尋ねても、「変わらない」「うん、相変わらず」としか応えてくれなかった。その意味が分かった。
「もしかして、相変わらず、元気?」
「うん、相変わらず!」
上野は弾むような躍動感で、身も心も、そして、大きな声で返答した。僕は泣いてしまいそうだった。泣いてしまえば、よかった。けれども、僕はその場を逃げるように立ち去った。いや、その場から逃げたんだ。
「それで、小出さんとはどうなったの」
「ふられた」
「ふられたって、どういうこと」
「うん、だから、ふられた」
「どうして」
「上野と付き合ってると思ったみたい。それから、態度も全然 変わったしね」
「それで、よかったの」
「そりゃあ、参ったよ。だって、今までで、一番好きになって、これからもこれ以上は好きにならないだろうなぁ、とまで思っていた女の子を自分の方から切って、それで、ふられたんだからね」
「そうだったんだぁ」
「小出さんのことは女神様のように思ってたけど、恨んだよ。僕は神様に敵意を燃やしたんだ。『この野郎、お前のために、俺は、これ以上はないくらいにまで好きになった女を切っているんだからな』ってね。絶対、復讐してやるって。どんな手を使っても、なんてね」
「それで、どうしたの」
「どうしたって、別に俺に何ができる訳ってことでもないけどね。ただ最後には『好きじゃねぇ! 好きじゃねぇ!』って百回くらい言われたよ」
「百回も」
「百回かどうかは分からないけど、電話なのに、耳を突き破るような、大きな声で、『好きじゃねぇ! 好きじゃねぇ!』って、頭が割れるんじゃないかと思うくらいだったよ。電話に出たのが、まだお日様が出てて、外は明るかったのに、もう耐えられなくなって、自分から電話を切っちゃったんだけど、その時は、もう真っ暗だった。とにかく参ったよ。これ以上は好きになれないくらい好きな女の子と、言わば、『師匠』を一遍に二人、失った訳だから」
「そんなひと、師匠って言えるの。女神だなんて、言えるの」
「でも、今でも俺の方では勝手に『師匠』だと思ってるけどね」
「やっぱり、小出さんのこと、好きだったんじゃない」
「だから、それは、そうじゃないんだってば」
「なんか納得できないなぁ」
「でもさぁ、小出さんには、いろんなことを教わったよ。だから、女についても、なんとなくだけど、随分 分かるようになったし」
「やっぱり、小出さんと、そういう関係だったんだ。やったんでしょ」
「だから、そうじゃないって言ってるでしょ」
「でも、なんか納得できないなぁ」
「でも、小出さんがいたから、あの時の上野は、どうだったんだ? とか、この時の上野は、
どういうことだったんだ? なんて、ことも よく分かるようになったんだ。そういうことが分かるような知識を小出さんから教えてもらったんだ。それがなかったら、今頃、まだ、何が何だか、分かってなかったかもよ。だから、小出さんには感謝している。今でも、俺にとっては師匠だよ。ねぇ、上野は、どう思う」
「それは、分かったけど、でも」
「でも?」
「悔しい! 悔しい!」
「上野が嫉妬するなんて、俺は恵まれてるね。上野、だいたい嫉妬なんてしたことなかったでしょ。上野だったら、何でも思う通りになってきただろうし。これからも、たいていのことは、上野の思い通りになるだろうし」
「あたしにだって、悩みはある。一番肝心なことで悩んでる。一番大切なことで、願いが叶っていない。あたしだって、辛い」
本当に夢のような『反省会』だったよね。ここまで、お互い、言いたいこと、言えれば、満足だよね。神様に感謝しなくちゃね。本当に本当に『おいしい時間』だったよねぇ。
それを上野があんなこと言い出すから。
「抱いて」
「それは、できないよ」
「どうして」
「だって、一度、裏切ってるもん」
「そんな、裏切ってることにならない」
「うんうん、裏切った。だから、そんな嬉しいこと、できない。天罰だよ」
「そんな、我慢することない」
「でも、今はもう上野には彼氏だっているんでしょ」
「別れる」
「そんなことしたら、駄目だよ。ばちが当たるよ」
「それでも、いい」
「駄目だよ」
「どうして」
「だって、上野にとっては、今の彼氏がいたから、元気になれたんでしょ。今の上野は、その人がいたからこそでしょ」
「そんなこと、関係ない」
「いや、そんなこと、言ったらいけないよ」
「いい!」
「駄目!」
それでも、貴方は執拗だった。私も貴方のことが大好きだったから、それを拒むということは、それを受け付けないということは、真に修行の成果を試されていることに他ならなかった。いや、そんなきれい事ではなかった。貴方からの申し出を、折角の申し出を、喉から手が出るような申し出を、倫理で断らなければならないということは、拷問に等しかった。実際、もの凄い拷問だった。ただ、貴方の熱意に私は負けたのだと思う。私は未熟者だった。そして、結果としては、しくじっただけだった。ただ、それだけのことになってしまった。
「抱いて!」
「それは、できない」
「どうして」
「だって、彼氏いるんでしょ」
「別れる」
「じゃあ、別れたら考える」
「じゃあ、約束して。別れたら、彼女にしてくれるって、約束して」
「うん、だから、別れたら考える」
「うん、だから、別れるから彼女にして」
「うん、別れたら考える」
「うん、だから、彼女にして」
「うん、考えておく」
「じゃあ、彼女にしてくれるの?」
「それは、分からないけど」
「じゃあ、抱いて!」
「どうして」
「抱いて!」
「だから、それはできない」
「どうして!」
「だから、俺は23年間、彼女がいないんだから。もし俺が今までに何人かと、そういう経験があるんだったら、それなら、別にいいんだけど。だけど、そうじゃない訳なんだから、それは、できない」
「じゃあ、あたしが、ね、あたしが彼女になってあげるから。ね、だから、ね」
「ぅ〜ん。だから、考えておく」
「どうして」
「だから、正直に言うと、こんな年になるまで彼女がいなかった訳だから、だったら、いっそのこと、もうここまできたら一生で一人がいい、なんて思ったりもするんだよねぇ」
「分かった。じゃあ、あたし、あたしがその一人になる。ねぇ」
「でも、そうしたら、俺にとっては上野は『たった一人のひと』になる訳だけど、上野にとっては『たった一人のひと』に俺がなれる訳じゃないでしょ」
「これからは、そうする」
「ほんとに?」
「うん。絶対そうする。そうする、そうしよう」
「でも、それって、ずるくない?」
「ずるくない」
「そうかなぁ」
「そう。だから、ね。ね。ね」
「ぅ〜ん。でも、正直を言えば、俺だって、今までに結構いい話しだってあったんだよ。それを、ずっと上野のことを思ってた訳で、だから、ある意味では、彼女がいなかったっていうことには、性格とか能力だけの問題じゃなくて、ある程度、それを通そうとした意志もあった訳で」
「だから、あたしと。ね、あたしと。ね」
「だけど、まぁ、実際には、そうじゃなかったんだけど、それが分かるまでは、ずっと片思いだと思ってたんだよ。それでも、なおかつ、結構っていうか、中には随分いい女の子もいて、それを我慢してきたっていう言い方も成立するんだよ」
「だから、あたし、ね。あたし、ねぇ」
「だけど、俺が上野のことをずっと思ってて、一人で淋しくて、ほんとに辛かったよ。でも、上野の方は、ちゃんと、それなりに相手もいて楽しんでたんじゃん。ずるいじゃん。なんだか、それじゃあ、俺がかわいそうじゃん」
「尽くす」
「そんな簡単に言うけど」
「尽くす」
「言葉だけ?」
「じゃあ、どうすれば、いいの?」
「うん。それを考えるのも上野なんじゃない」
「何でもする!」
「分かった」
「何?」
「じゃあ、俺の彼女にだけはならないで」
「……」
こんなやりとりをして、僕は正直に言うと、別に約束なんかしなくたっていいじゃん。どうせ、俺は上野のことが好きなんだし、それは もう変わりようがない訳でって言い切れるかどうかは分かんないんだけど、でも、まず間違いはないというのが本当のところだったと思うよ。ただ、あんまり上野が『約束』って、約束々々って『約束』にこだわるもんだから、僕も素直になれなくなっちゃった訳で。それで、話しはどんどんどんどん。どんどんどんどん。あらぬ方向に行っちゃった訳で。
「他に好きな子がいるんだぁ」
「そんなことない」
「嘘!」
「俺は上野のことが好きだし、これ以上は好きになったことがないくらいに大好きなんだし。それは絶対に本当」
「じゃあ、何で彼女にしてくれないの!」
「だから、少し間を置こうよ」
「もう待てない。あたしはもう3年6ヶ月も待ってんだから」
「それは俺も同じ」
「だったら、ね。ね。ね。ねぇ!」
「だけど、上野は待ってたって言うけど、その間、自分はちゃんと相手がいて、楽しんでたんでしょ」
「ちゃんとした相手だった訳じゃない」
「それじゃあ、なおさらよくない」
「だから、あたしは、ずっと、ね、ずっと」
「ずっと遊んでたんだぁ。セックスばっかりして」
「あたしだって人間なの。だからセックスだってするし、ね。ね。だから」
「だから、俺はセックスしないから、人間じゃあないってことか。そういうことになるね」「……」
「上野はやり過ぎなんだよ。病気なんじゃない。少し時間を置いたら。そんな時期があってもいいと思うよ」
「どのくらい」
「どのくらいがいいのかなぁ」
「ねぇ〜、もう我慢できない。ね。ね。ね」
「我慢すれば」
「もぉう。だったら、一度抱いてくれたら死んでもいい」
「死なない方がいいんじゃない。それに死ねないでしょ」
「だから、お願い! 一度だけ、一度でいいから」
こんなこと言ったら怒られるだろうけど、僕は、こんなつれない返答を繰り返していた癖に、本音では、『もっと言って! もっともっともっと言って!』という強い願望があった。それから、ただ単に自分の言いたいことを口に出すことができなかっただけだったのが本心だと認めなくてはならない。又、自分はそうじゃない!という言動を保つ必要も感じては
いたものの、それだけで精一杯だったのが実情のところで。情けない。なんて情けないんだ。しかも、女の子の方から、ここまであからさまに、面と向かって、ここまであらわに、その
心中 察すると申し訳が立たないまでに痛み入る、「抱いて!」と、何度も何度もハッキリ言葉にする、その大きな声、叫び、願い、そして、根性、勇気、不屈、どれをとっても今更ながらに感服する。貴方は素晴らしい!その真剣に応えたいのに応えられなかった自分は、なんてちっぽけなんだろう。しかも、僕の臆病と狡猾は、それだけにとどまらなかった。そこまで言ってくれるんなら、口だけじゃなくて、『どうにかしてくれれば、いいのにぃー』なんて、逆にこっちが『抱きしめてほしい』と、「抱いて!」と叫びたいという気持ちさえあった。
それでいて、無論、そんなこと言えなかったけど、『そこまで言うなら、もう勝手にしてぇ!』と、『どうにでもしてぇ。どうにかしてよぉ。好きなようにしていいかぁらぁ!』という思いさえ抱いていた。本当に恥ずかしい話しなんだけど。
随分と『女』『女』していたんだよねぇ。でも、実際にそういう時、どうすれば、どうやって『事』を進めていったらいいのか、その『動き』方が分からないから、受け身にならざるを得なかっただけで。そういう時は、『どうすればいいの?』ってハッキリと聞いちゃえばいいんだと知ったのは、もっと後々のことだった。それに気付くまでに何度も失敗を重ねた。それに
攻めている方だって、僕みたいなのが相手だと、『ゴーサイン』かどうかも読めない訳だから、勇気を出して、恥ずかしくても、巧く表現できなくても、ひと言でもいいから分かるように返事をしないといけないんだけど。例えば、『どうすればいいの?』って正直に言えたなら、意志だけは伝えられたなら、あとは教えてもらえばいい訳だったのに。そういう時は、相手の方も教えてくれるものなのに。そうやって順番に、代わり番こに、交替々々になっていくものなのに。
「抱いて!」
と、女は机をパンとはたきながら、強く訴えた。もう今日のやりとりだけで、このセリフを
何度 口にしたことだろうか? 目は血走ったかのように、何ヵ所も赤いものが滲んでいて、ギラギラとしていた。ここまで来たら、ひき下がれない!そんな思いがこの女を半狂乱のごときふる舞いに駆り立てていた。
すると、男はボソボソと重い口から言葉を並べ始めた。
「正直を言えば、
と、そこで何を思ったのか、男の重い口から再び音が絶えた。すかさず女は、
「何?」
と、素早く入り込んできた。そして、視線も送った。この辺のフットワークの軽さはこの女の長けたところだった。男はまた、ボソボソと言を発し始めた。
「正直を言えば、『抱いて』って言われても、どうしていいか分からないんだ」
男は慎重に言葉を選んでいたのだが、はた目には言い難そうにしているようにとしか見えなかった。女はこの言葉の差すところが判別できなかった。けれども、男が反応し始めたということで、少し落ち着きをとり戻したようにも感ぜられた。そして、身をのり出すようにして、男に尋ねた。
「どうしていいか、って何を? 何をどうしていいかってことなの?」
「だから、どういう風にしたら、『抱いて』って、そう何度も言われても、どうしたら、というか、どういう、というか、
「私じゃ嫌なんだ」
「嫌じゃないよ」
と、そこで女の表情に光が灯った。
「抱いてくれるの?」
思わず大声になってしまっている自分にさえ恥ずかしさなどなかった。女の期待は膨らんだ。男は答えた。
「抱きたいけど、
「抱きたいけど?」
「どういう風にすればいいの?」
「抱いてくれるのぉー」
と、そこで、女の顔から朝日が出てくるように、更に光が大きなものとなった。
それを見て、男の口が急に早くなり、一気にまくしたてた。
「あっ、だから、そうしたいんだけど、どうすれば、そうできるのか分からないから。 あっ、だから、やり方が分からないし、どういう風に始めたらいいのか、その動きも分からないんだ」
「じゃあ、抱いてくれるんだぁ!」
「抱いてあげるというよりは、もう好きに勝手にやって。俺を道具にしていいから。それでいいなら、こっちの方からお願いしたいくらいなんだけど、それでも、いい?」
「うん! 十分々々」
女は大きく何度も頷きながら、パチパチと手を叩いて喜んだ。嬉しくてたまらない、といった表情が女の顔をくしゃくしゃにしていた。本当に嬉しさがどっと溢れてくるようだった。
男は静かに喜びをかみしめていた。その隣りで女はまだ騒いでいた。
今、思い返しても、こんな会話あったんだよねぇ。信じられないなぁ、ねぇ。
あれから、8年かぁ。あれから、ずっと俺は片思いをしているよ、相変わらず。
片思ひ それも通せば ルーティーン 心の平和よるところ
いかにかせしめん! 案ずれば 迷ひの道に心 乱れり
「ねぇ、あたしはどこでもいい! どこでもいいから、今日! 今日がいい」
「うん、でも、正直言って、今日はもうクタクタなんだ。だから、また今度にしよう」
「今度って、いつ」
「うん、今度」
「いつ!」
「今度」
「いつ! いつ!」
「じゃあ、こうしよう。今日はぐっすり眠って、ね。今日はもうこれだけしゃべったんだから、今日はゆっくり疲れがとれるまで寝るだけ寝て、それで、明日。どう?それじゃあ、駄目?」「うん、分かった。それでいい。じゃあ、明日ね。明日」
「うん、だけど、どうしようかなぁ、今日は」
「何が?」
「もう終電ないし。どうしようかなぁ、今日、これから」
「うちに来て! ね、そうしよう」
「ぅ〜ん、どうしよう」
「ね、そうしよう。来て」
「ぅ〜ん、正直言うと、そうしたいんだよねぇ」
「来て! 来て! 来て! ねぇ、そうしよう」
「うん、そうしたら、楽しいだろうねぇ。そういうのって、幸せってことでしょ」
「うん、だから、そうしよう」
「そうしたい」
「うん、じゃあ、そうしよう、ね。ね。ね」
「うん」
「うん、そうしよう」
「うん、でも、そんなことしたら、俺、そのまま居着いちゃって、しばらく帰らなくなるかもしれないよ」
「いい! それ、いい。そうしよう。ね、あたしはいいから、そうして」
「うん、そうやって、セックスばっかりしている時期があった方がいいような気もする」
「うん、それって、大切。大切々々」
「そんなこと、してみたいなぁ」
「しよう。そうしよう」
「でも、そしたら、上野から離れられなくなる。今までみたいに、一人でいられなくなる」
「うん、だから、あたしが、ね。あたしが」
「でも、そうしたら、毎日、お披露目になるよ」
「どういうこと?」
「だから、いつも一緒に行動して、二人で一緒にいられないことは全部キャンセル。それで、キャンパスなり、歩いている時に、誰か知り合いに会ったら、その場で紹介。紹介々々。もう毎日、紹介。立ち話ししながら、盛り上がったら、そのままご飯食べに行ったり、お茶したり、お酒飲んじゃってもいいよね。そうやって、毎日、お披露目。ね、お披露目。そうやって、どんどんどんどん『公』にしていくの。それで、みんなに認めてもらうの。だから、毎日、その場で紹介。お披露目。そうやって、毎日どんどん『公』にしていくの。どう?」
「いつ! いつ!」
「別にいつでもいいよ」
「いつ!」
「だから、本当にそれはいつでもいいから」
「本当!」
「うん」
「あたしも紹介したい子がいっぱいいるの。やっぱり紹介しときたい友達とかもいるしね」「うん、じゃあ、そうやって、どんどん『公』にしていこう」
「本当」
「うん」
「うん、分かった。そうしよう。それ、いい。それ、いい。そうしよう。そうしよう」
「うん、だから、二人で行動できないことは、しばらく駄目。ある程度、落ち着くまでは駄目。それから、俺が図書館で勉強している時なんかは、上野は横に座ってて、それで、お前も本でも読んで、時間潰してろ。ちゃんと横に座ってるんだよ」
「うん、それいい! それ、いい。ちゃんと横に座ってるから。そうしよう、ね。あたし、お弁当作る」
「ほんとに」
「うん、そうする」
「そうしようかぁ」
「うん、そうしよう」
「うん、そうしたいなぁ」
「アッハッハッ、やったやったやったぁー」
「でも、やっぱ、このまんま、なし崩し、みないになっちゃうのは よくないんじゃない?」
「大丈夫」
「だって、今日、上野ん家 泊まったら、絶対、そういうことになっちゃうでしょ」
「うん、そうしよう。あたしは それでいい」
「俺は なんとなく よくないような気がするんだけど」
「どうして」
「っていうかね、今、この店 二人で出たら、なんとなく いくとこまで いっちゃうと思うんだよね。突っ走っちゃうでしょう、お互いに」
「うん」
「だから、どうしようかと思うんだけど」
「どうして」
「変なこと、言うようだけど、やっぱり、最初は旅行みたいなことして、それでっていうのが、そういう方がいいような気もするんだけど」
「うん、旅行しよう。一緒に行こう。だけど、今日は、ね、今日は、うちで、ね」
「ほんとにそうしたいねぇ」
「うん」
「でも、一緒に旅行なんてできたら、本当に嬉しいだろうなぁ」
「うん、行こう」
「あのね、変なこと、言うようだけど、女の子と二人だけで、夏は海に行ったり、冬はスキーしたり、カップルでね、そういうことするの、そういうこと、したくてしたくて、憧れてたし、そういうことしたかったなぁ」
「うん、それ、いい。行こう行こう」
「でね、凄い いい女 連れて、夏の海のコミコミの他人が大勢いるところで、いい女 連れて歩いて、勝ち誇りたかった」
「あたしも水着、着る」
「大胆なのが、いいなぁ。それで、勝ち誇るの」
「うん、そうしよう」
「でも、上野には水着、似合わないんじゃない。それに大胆なのって、ちょっと無理があるんじゃない」
「どうして」
「だって、上野、スタイルいいの? あんまり そういう風には見えないんだけど。まぁ、でも、見たことないから分かんないんだけど」
「大丈夫」
「ほんとに」
「うん、まかせて」
「ほんとに、期待していいのかなぁ、そういう意味でも」
「うん、それは、ある程度は自信ある」
「それって、もしかして過信じゃない? っていうより、自分で自分のことが分かってないんじゃない?」
「そういう言い方ってある?」
「いや、別にそんなに期待してる訳じゃないから、気にしなくていいよ」
「馬鹿にしてんの」
「そうじゃなくて、上野だったら、別にそんなことはどっちでもいい」
「でも、そんなに、ね、そんなに自信がある訳じゃないんけど、そりゃ、凄いひともいるから。ほんとに凄いひとっているでしょ。でも、あたしだって、ある程度は、ね。ある程度は大丈夫。うん、期待して。そういうの着るから」
「でもね、本当にそんなことはどっちでもいいんだ、上野だったら」
「……」
「……」
「ほんとに、あたしでいい?」
「うん」
「本当に」
「十分」
「やったぁー。やったやったやったぁー。」
「うん、それから、スキー。これは もう、一度でいいから 女の子と二人きりで行きたかった」
「うん、それも絶対。うん」
「なんかね、スキー場で、いちゃついたりしたかった」
「うん、それ、いい。行こう行こう」
「うん、ほんとに」
「うん、だから、今日は、ね。ね。」
「どうしようかなぁ」
「だから、もう これ以上 我慢できない。ねぇ、お願いだから、ね。お願い。お願い、ね。ね。ね」「でもね、正直言うと、俺ね、今まで自分を縛って生きてきたから。そういうこと、我慢してたから。だから、一度、そんなことしたら、俺、たぶん駄目になっちゃう」
「うん、それはよく分かる。だから、あたしが、あたしが、ね、あたしが」
「あっ、だから、上野だと、よけいに、一度、上野と そういうことになったら、俺、もう 絶対 駄目になっちゃう」
「大丈夫、あたしが、あたしが、ね」
「だけど、今だったら まだ我慢できるから」
「我慢しなくていい。ね、我慢する必要なんてない」
「でも、そういう風になっちゃったら、それで上野に捨てられたら、俺、絶対に立ち直れない」
「大丈夫、それは心配しなくていい」
「でも、それって、信じていいのかなぁ」
「信じて、それは本当に」
「ほんとに大丈夫かなぁ」
「大丈夫」
「ほんとに?」
「もう、だから、それだったら結婚しよう。ね、だから、もう我慢できないから。だから、結婚してもいい! そうしよう」
「うん、結婚が条件なら、安心できる」
「うん、だから、結婚しよう、ね。だから、それは分かったから、もう これ以上 我慢させないで!」
「そんなに我慢できないの?」
「できない」
「ぅ〜ん、それは俺には理解できないことだなぁ」
「もう、あたし、我慢できない」
「どうして」
「どうしてって、もう我慢の限界」
「そういうもんなの?」
「そう! だから、お願い。ね、お願いします。お願い。ね、お願いします。ね、ね、そのうち、
分かるようになるから。ね、だから、お願い。ね、分かって」
この時、上野は何度も何度も手をこすり合わせて、何回も何回も頭を上下させていた。そして、訴えていた。時折、切ない叫び声さえ漏らしていた。この会話の最中を描写したら、もしかしたら、それは、エッチな話しの本のようになってしまうかもしれない。そのくらい、上野は凄かった。そのくらい真剣に乱れていた。
それで、この時、僕はというと、既に『幸せ』を感じていた。そして、このまま、なるがままに
していたら、きっと僕は生涯を通じて、『幸せ』になれたと思う。でも、結局、僕は……
「でもね、こんなこと言ったら、贅沢な話しになるんだろうけど、結婚する前に、やっぱり、『恋人』っていうの、しばらく恋人同士っていうのも、やってみたいんだよね」
「うん、あたしは、それでもいい」
「そういう期間も必要だと思うし、そういう期間を楽しむってことも大切だと思うし、とにかく、そういうこともしてみたい」
「うん、だから、あたしはいい」
「でも、その間に ふられちゃったら、どうしよう」
「そこまで、考える? ちょっと考え過ぎなんじゃない」
「悪かったねぇ。俺にとっては大きな問題なの。不安もあるし」
「あっ、ごめん。ごめんなさい。そういうのも分かる、分かる。でも、あたしを信じて」
「そうやって、上野は簡単に言うけど」
「だから、大丈夫。信じて」
「ぅ〜ん、信じていいのかなぁ」
「信じて! 『あ・た・し』を信じて」
「だから、俺は一生で一人でいいの! 一人がいいの!」
「だから、『あ・た・し』が その一人になる。『あ・た・し』が」
「本当に?」
「本当に!」
「でも、ちょっと待てよ。一生で一人だと、それも、ちょっと不安だなぁ」
「うん、それは分かる」
「分かる?」
「分かる」
「そうなんだぁ」
「うん、だから、浮気だったら、いいから。ね、そのかわり本気にはならないで。浮気だったらいいから」
「随分、凄いこと言うね。それって、凄くない?」
「でも、やっぱり、あたしも不安だから。他のひとも知っといてくれた方が安心できるから」「でも、それは少し落ち着いてからにしよう。じゃないと、俺も嫌だから」
「嫌?」
「嫌だよ」
「じゃあ、あたしが紹介してあげる」
「それ、本気で言ってるの」
「だから、浮気。絶対、浮気にしてね。あたしが紹介する子だったら、絶対、浮気で済むから」「でも、もし俺が その子のこと、好きになっちゃったら、どうするの」
「だから、浮気にして。好きにはならないで」
「そんな器用なこと、できないよ」
「じゃあ、浮気にできないなら、やめて。浮気だったら、いいけど」
「上野は、それでいいの?」
「別にいい訳じゃないけど。でも、一生で一人しか知らないのも かわいそうだから。だけど、浮気にして。あたしも我慢するから」
「まぁ、確かに俺は今まで我慢してた訳だけど」
「うん、だから、浮気だったら、いいから。その代わり、あたしが紹介する子にしてくれたら、安心なんだけど」
「そんな子、いるの?」
「いる」
「えっ! なんか やっぱり、上野とは住む世界が違うような気がするんだけど」
「そうじゃなくて、例えば、彼氏が留学してたり、遠距離でなかなか会えない相手だったりする子がいるから。そういうことで悩んでる子って、結構いるの」
「だからって、そういうこと、してもいいの」
「うん、やっぱり、それじゃあ、淋しいでしょ」
「だからって、そんなことまでするの」
「だから、お互いに浮気。浮気にすればいいの」
「じゃあ、もし俺が本当に その子のこと、好きになっちゃったら、どうするの? そうじゃなくても、その子の肉体に魅力を感じちゃったりしたら」
「だから、そういう風にはならないで」
「そうだね。もし そんなことになったら、上野の相手として ふさわしくないもんね。それじゃあ、上野の相手として失格だね」
「そんなことは、ないけど。でも、本気にはならないでね」
「でも、それって、ちょっと怖いような気もするんだけど」
「うんうん、大丈夫。大丈夫だから」
「でもさぁ、そういう子が、俺なんかでいいのかなぁ」
「大丈夫」
「大丈夫って、どういうこと」
「だから、大丈夫」
「ふぅ〜ん。なんだかよく分かんないけど」
前略、上野陽子様。もしかしたら、貴方は今頃、凄く真面目に生きていらっしゃるのではないでしょうか。私には、そんな気がするのです。退廃的な毎日を繰り返している私とは裏腹に、貴方の方は、打って変わって、節操のある、ちゃんとした生活をしているように思えるのです。そんなことを考えたりすると、貴方が輝いて見えるのです。私には、そんな想像が働くのです。すると、よけいに貴方が輝いて、眩しいくらいなのです。もしかしたら、私は、以前も、今も、そして、今後も、貴方を美化することにより、それを楽しみに生きているのかもしれ
ません。それが、私の宿命なのかもしれません。貴方も私もビートルズが大好きでした。よくビートルズの話しをしたものでしたね。今の私は、ポール・マッカットニーの詩にあるように、Will I wait a lonely life time ? If you want me to,I will.と、そんな心境でしょうか、なんてね。
僕はひとの後ろ姿を見るのが好きだった。
小さい頃から、学校の教室ではいつも一番後ろの席に座っていて、公平にくじやジャンケンで班分けや席替えはちゃんとやったもんだが、それでもどういう訳か、いつもみんなの背中を眺めていた。そうすると、落ち着いて、教室中無意識のうちに細々と嘗め回して、目ばっかりきょろきょろすると、ぼんやり先生の声がぼそぼそ絶え間無く耳から入り込んできて、
あたかも睡眠学習をしているかのようだった。 時折、『睡眠』から覚めてしまうと、それが『現実』だった。
僕は夢を見ると、いつも逃げていた。リュックサックをしょって、ベンチに腰を下ろして、
水筒の上蓋をくるくるさせて、ひと口喉を潤すと、又、やってくる。この上ない全速力にして、そのうち身体が浮きそうになるくらいにまで、ちょっとでもスピ−ドを緩めようとすると、かえって痛くてたまらないから、ついには走りながら苦しくて息もできないようになり、
やがて、肉が跳び散り、脚がもげ、ボディ−まで吹っ跳んでいく。それでも、意識はしっかりしていて、無いはずの脚が勝手に私の預かり知らぬうちに、自分の役目に執拗にこだわり
続け、もはや私としてはもがいているだけだが、足元を覗き込んでも何も見えない。 これ
よりもっと痛い思いをしてもいいから、もうこれで最後にしてくれと泣き叫んで頼み込んでも、仕舞にしてくれない。とうに痛みは恐怖に取って代わって、まだまだ、それは増す一方で、目玉は消防自動車のホ−スのように滝のような涙を際限なく流し続けているが、何百mも地に着かないでいる。そうかといって、もとより、目玉はおろか顔形もあばら家のようになっている。心配になって触ってみようとして、手が無いのに唖然とした。それでも、こめかみに手形の感触がして、あるはずもない度肝を抜かれる。それから最後に恐怖の絶頂に
達して、失神してしまう。あとには静けさが残り、気が付くと、森の泉に小舟が浮かび、奇麗な女のひとが長い髪を素手で分け、一緒に腰もくねらせている。小鳥のさえずりが聞こえ
てくるようだが、全く音のない世界である。羽をバタつかせたかと思えば、勢いよく視界を横切っていき、レンズを通して見るようにワンテンポ遅れて目が追い掛ける。
高校を卒業して『入学式』のなかった僕は、半ば名目上大学受験浪人のような毎日を過ごしていて、模試も終わる頃になって、それまでの遅れを一度に何とかしてしまおう、という
ような、あまりに自分勝手で、浅ましい、大それた、身の程知らず野心など、さらさらありもしなかったが、クリスマスも正月も講習に通って、半分は感傷に浸っていたのが実情だったのだろう。
巷にてジングルベル鳴るを、霜夜にこそありつれ、笑ひ顔ばかり通り行く、
北風に丸かされたる背であらば大方不憫無かりしものを
試験まで、頑張りのもがきは続いたものの、それは、内心、来年こそはちゃんとしよう、と
いう戒めだった気がする。
まだ、二三の入試を控えていて、その日、前日まで重なり続いていた日程で、多少風邪をこじらせていた僕は、階段を駆け上がってくる母にきょとんとしたが、電子郵便の到着を、即、
合格通知と取り違えたらしく、わざわざ試験の最中に足を運ばなかったので、本当のところ、それは、不合格を目の当たりにする怖さからだったに違いないが、臆病で、その癖、頑固な僕は、それを今でも主観的に認めようとする言い方を拒むけれども、平静を装う自分も舞い上がった。何を隠そう、この私も電子郵便の何たるかを知らなかったからだ。
その後、電子郵便に自分の番号があったりなかったりしたが、結局、最初の通知より都合のいいものはなかった。振り込んだ金も捨てることになったら惜しいが、そんな迷惑なら喜んで迎えよう、と、ほくそ笑んだりもしたが、迷惑も喜んで迎え入れることもそんな気苦労はくたびれもうけだったし、金は無駄にならなかった分、惜しくはならなかったが、ほくそ笑んだ分骨折り損だった。
この辺の心情は自分でも定かでないが、あとに残ったのは、これで自分も凡人になれる、という気持ちだった。入学式の時には、その念が更に強められて、晴れやかに、あぁ、これで立派に十分凡人だ、と、俺も凡人だ、と、胸を張って、もう世に背く背を向けるものではなくなった、と。
それからは、来る日も来る日もワイワイ馬鹿をやって、人間界への復帰も収まりがついたかと思えば、又、馬鹿をやって、しがらみが中々とり払えずに、飽かずに毎日を繰り返していた。それで、成長があったか、なんて問われたら、ある訳無いが、自分なりに自分をとり戻しつつある頃合いだった、なんて言い返せるかもしれない。日増しに感じがつかめていくような、確かな自信がやわら見え隠れ見え隠れし、次第に馬鹿をやらなくなっていった。
交はれば赤になれども朱と違ふ不器用の白なればこそ赤らみもすれ、
ののしれば頬に紅浮かび歌えよ飲めよで又赤味を覚ゆる |
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